恋の味をご存じないのね


特定の何かをじっと見つめていると、それが何なのか却ってわからなくなるという事はよくある。「映画」というものがあって、それはきっと、何か目くるめくときめく夢のような特別なものなのだと思うが、でも空気の淀んだ薄暗い部屋の発光するモニタ上でささやかに連日「映画」を観続けていると、ひとつひとつが面白いとかつまらないとかいう話とは別に、それまで思っていた「映画」というもの全体のイメージの輪郭線が、何だかよくわからない茫洋としたものになってきたりもして混乱する。面白いとかつまらないとかが代謝してペラペラ剥がれていく表皮のようにしか感じられなくなってくる。そうすると僕が自分自身の中で、それまで「映画」というものを何か全然特別なものだと思っていたのだという事に事後的に気付いたりもする。でも今はどうもそういう気持ちを消失してしまっていて…いや「映画」というのはやはり特別な何かである事は間違いないが、でも今観てるこれは一体何なのだろう??などと根本的に考え込んでしまったりもする。何かがそれまでの感じと微妙に変わってしまっているという事が実感されているが、それを価値付けできる如何なる安定基準もないという状態だ。


「映画」というのは人間が一生をかけて関わるに値する素晴らしいものなのだろうとは思う。しかし依然として「映画」というのはよくわからない。というか、このまま延々観続けていっても、やはり「映画」はよくわからないものなのだろう。そもそも「映画」というものの正体を知りたいという考え方が倒錯ではなかろうか?本当に問題にするべきなのは、「映画」のスクリーンに映っている美女や拳銃や自動車の筈である。それさえ観て満足できれば、本来「映画」である必要性すらないのだ。…しかし「映画」というのが面白いのは、それが常に、美女や拳銃や自動車の気配でしかない事なのかもしれないが。


しかし…まず始めに、それ自体が不思議な抽象にも思えるような「歴史」がある。で、その中に色々…「映画」もそうだし、おそらく「文学」とか「音楽」とか「美術」とか、なんでもそうなのだろうけれど、それは基本的には今これを書いてる「この私」と絶望的なまでに不平等で釣り合わない関係で存在しているものなのだと思う。そういうものに、無理やり自分をアピールして、自分の体を捻じ込み、何とか縋りつくというのが、すなわち「鑑賞」なのではなかろうか。だから「鑑賞」というのは、実は相当しんどい事なのだと思う。報われる事は少なくて、徒労のリスクの方が格段に大きい行為なのかもしれない。それは恋愛に近いかもしれない。恋愛はこちらがどれほど努力を重ねても、相思相愛になれる保証はないし、ここより他の別の世界への扉が開く訳でもない。不条理な程残酷な結末が(あるいは白けるようなそのままの現実が)簡単に現前するのが恋愛である。よって、人々は恋愛を前にして「でも私はこれだけ努力したのだから見返りを得る正当な権利を持つ筈だ」とはなかなか主張し辛い。世の中はそういう仕組みじゃない、と誰もが理解しており、私とあの人は別個の存在であって、共有できる何物もないのだという事も理解しており、それを噛み締めていて、その事実に対してある程度、従順である。そうでなければ生きていくのが難しいからだ。


おそらく映画や美術や文学と、想像を絶するほど良好な関係を結ぶ事のできるような人というのが、この世界には存在していて、そういう人物こそが「上流」であり「セレブリティ」なのだと個人的には思うが、まあそれはともかく、悲しくなるほど貧しい資質の僕が無様に対象と恋愛を試みつつ、上手く行ったように錯覚しつつ砂を噛むような思いに突き落とされたりもしつつ、でもまあ結局はこのがむしゃらを続けるより他ないんだろうなあ、とも思う。そうなると人生極めて単純になって来る。単に憧れて夢中になってるだけみたいな感じで、そういう生き方で行ければ、なんかそれ自体がイタリア映画みたいである。と、結論がそれでは如何にもイタイ感じであるが。。