システムとドライビング Part2


前回の続き。…肉体という物質は、古来から人間と動物に根本的な違いはない。ギリシャ人と現代人にも肉体の物質的差異はないだろう。肉体とはたとえば一定量を超える衝撃を受ければあっけなく壊れて潰れてしまうような柔らかい有機物から成る構造体に過ぎないという事を誰でも理解している。しかしその一方で、遊園地の乗り物に乗ってみたいと思うような、ある種の極限状態に自分の体を晒してみたいと思うようなところは、人間なら誰しも持っていて、苦痛を感じるぎりぎりのところまでには近づいてみたい。


高度なテクノロジーが隠してしまう「過程」について思いを巡らせ、時折垣間見える「一瞬の(死の)イメージ」に翻弄される快楽の享受こそが、20世紀の人々に等しく分け与えられた娯楽の最たるものであり、F1パイロットこそはその祭事を司る神官であり同時にある欲望に向かって捧げられるべき20世紀的生贄とも言うべき存在として存在しているのかもしれない。


F1マシンに乗る資格があるとされた人物は、世界に数十人しかいない。彼らは皆、選ばれた者たちである。彼らはウィークデイのほとんどを豪華で広大な敷地の自宅または別荘で過ごすか、あるいはグランプリが開催されるサーキット付近のリゾート地にある高級ホテルのスィートや三ッ星レストランで過ごし、夜な夜な開催されるパーティで各要人たちとの社交に明け暮れる。彼らが働くのはレースウィークの週末だけで、金曜日の午後にレーシングスーツに着替えてホテルの自室を出て、うんざりするほどの喧騒と突き出される録音用機材や明滅するカメラのフラッシュに取り囲まれ、入れ替わり立ち代り現れる様々な業界の様々な人種に会釈をし握手をしときには立ち話をして冗談のひとつも口にしつつ、揉みくちゃにされながらもようやくサーキット内に仕立てたれた自分のチームパドックへと向かうだろう。中には2日も前から徹夜続きのメカニックエンジニア達が疲労の極点のような表情で、それでもスーツ姿のパイロットに朗らかな挨拶を贈る事だろう。中央にはオーバーホールが完了し、デフォルトセットアップされた悪魔のように美しく光るマシンが静かに主の搭乗を待ち構えている。…マシンに乗り込み、ゆっくりとステアリングの感触を確かめる。エンジンに点火されると凄まじい爆音と共に、うな垂れていた回転計の針の先が生き返ったかのように頭をもたげ、中空をゆっくりと叩く。自分の体が共に覚醒していくのをおぼえつつ、ゆっくりとマシンのアクセルを踏み込むと、自分を乗せた鉄の塊が船のように推進を始める事だろう。


映画「F1グランプリ 栄光の男たち」に登場する今から35年も前のきらびやかなF1パイロット達。この映画では、フランソワ・セヴェールというフランス人パイロットの姿が多く捉ええられている。73年を最後に実質的に映画界を引退したブリジット・バルドーの一時期の恋人であったとも噂され、圧倒的人気を博していた俊英。ワールドチャンピオンのジャッキースチュアートからドライビング技術を受け継ぎ、次世代のチームはもとよりF1全体を代表するような逸材に成長するとも思われていたスーパースターである。しかし最終戦アメリカGPにて予選中に事故死。現場はスプラッタ映画のような凄惨な状態だったらしい。享年29歳。


驚くべきことだが、セヴェールだけではなく1973年の1シーズンだけでパイロット3名が死亡している。車体が砕け散り、内部タンクにたっぷりと詰め込まれた燃料が内部の人間をあざ笑うかのようにこぼれ、盛大に飛び散り、あっという間に引火して炎を上げ、車全体が紙のように燃え広がっていく。…70年代の10年間で10名が死亡。。…しかし先進諸国間で公式に執り行われているスポーツ興行において発生する事故の致死率としてはほとんど異常な値ではなかろうか?僕などちょっと信じられないような思いに襲われる。環境保護とか動物愛護とかを叫んでる傍らでこういうのが延々継続されて来た事自体がものすごい事だと思うのだが…しかし世の中というのは実に不可解である。(というか70年代などという時代は今や想像もできないほど劣悪な環境や労働条件も残っていたのだろうけど。今の僕が感覚的に麻痺してるだけなのかもしれないが。それこそ昔、炭鉱労働者とか危険区域作業者の事故がどれほど沢山あったのか?という話にもつながる。昔と今では生命の危険度が違う。それに伴って人間の生命に纏わるイメージも驚くほど変わる)


現代のF1では、余程ひどいクラッシュがあっても大抵の場合、中のドライバーが死に至るなどという事にはならない。逆に見ていて「無傷なの?そりゃおかしいのでは?」と思うくらいだ。あの速度で壁に激突してコマのように回転しながら鉄屑同然な状態まで大破しているのに、中の人間はよっこらしょっという勢いでシートから降りてくるのを観てると騙されてるような気にさえなるが、でもあれこそがテクノロジーの進化の賜物なのだろう。とにかく今、F1で人が死ぬ事はほぼなくなった。F1でのドライバー死亡は1994年のアイルトン・セナ以降一人も居ないのだ(マーシャルの死亡等あったが…)。しかし「悪意」は消え去ったのか?


まあ、なんだかんだ言っても、個人協賛企業も付いていない昔のF1パイロット稼業は、実にのどかで幸福な商売であったのだろう。云ってみれば死ぬも生きるも走るも遊ぶも自由という存在で「悪意」と上手い事取引して契約書さえ交わせば、後は太く短い生涯を謳歌できたのだ。…もちろん類まれな才能を持つ限られた一部の存在だけに許される特権であるのは今も昔も変わらないのだが。


しかし、今という時代はもっと状況が悪くて、仮に類まれな能力を持っていても個人の力量として昔と同じように勝手にやるのは無理だ。今のF1パイロット(いや、世界中の全てのトップアスリートが)はもう会社員とほぼ同じような、いやそれ以上に規範的な生を義務付けられているのだろうし、アスリートが払う全ての努力は近代スポーツの概念に回収されるだろうし、アスリートの発言に反社会的要素が含まれる場合は多方面からの極めて強い拒否反応を招いたりもする。それはすなわちアスリートの能力さえ完全に制御可能なモジュールとしてシステム配下に定着させ得たという事でもある。で、アスリート各人はその替わりにとして、いきなり生の危険に晒されて生命を失うようなリスクをほぼ完全に免除されたのかもしれない。