世界/鑑賞/映画/旅行


旅行ってのはいいものだ。…旅行の良いところは、旅先というのが自分の中の夢や幻想ではなくて実在するという事だ。それは自分の想像力の外側が実在するという事なのだ。


しかしいつもそうなのだが、旅行から帰って来て玄関の鍵を開けて自室に入り、旅行鞄の中身をぶちまけて汚れた衣類なんかを洗濯機に放り込みつつ、窓を開けて空気を入れ替えたり埃を払ったり郵便受けに溜まったものを整理したりしつつ、少しずつ自分の部屋での元の生活の感触がよみがえってくると、なぜかとてもシュールな気分にさせられるのだ。


この部屋の雰囲気とか窓から見えるいつもの風景とかさっき付けたテレビから溢れるトーク番組の音声とかガス台においたヤカンのお湯が沸き始めた音とか明日から再びはじまる一週間分の仕事のイメージとか…そういう見慣れて完全に自分の中で馴染んでいる生活の感触めいたものと、今やそれとはまったく無縁な、昨日までの旅行先の感触〜場違いな感じや手持ち無沙汰な感じとか、よそ者の程好い孤独感とか緊張感や不安感も感じながら滞在していた、あの場所や雑踏や雰囲気全部が思い出されて、でもそれらの場所は驚くべきことに夢でも幻想でもなくて、実は今もまったく変わらぬまま、この瞬間にも私の今の現実と地続きで存在している場所なのだ、という不思議さにびっくりして気が遠くなるような思いに包まれるのだ。


「彼方は未だ甘美だろうか?」と戦場で呟いた作家がかつて居たそうだ。が、おそらく甘美であるからこそ、それは「彼方」なのだ。今ここに在る自分の現実が揺らぐかのような、あるいは現実とそれが両立している事が信じがたいような、そういう強烈な存在感を伴って感じられる何かの感触だけが人を酔わせるのだ。絵画や映画や小説が与えてくれるものとはそのような、不在である事のかなしみに身を切られるかのような切なさを感じつつ、でもたしかに僕が今ここに感じているという、その感触でしかない。でもそれこそが生きている喜びのすべてなのだ。


などとここまで書いて…おそらく僕は、昨日観た「世界」という映画の事を今もまだ気にしているのだが、あの映画が、予想以上に何という事も無いまま自分の中をすり抜けて行ってしまった事にこだわっているのだ。


「世界」という映画についての批評や様々な感想文などをウェブ上から手当たり次第に読んでみると、それらの言葉は一々、どれもとても納得できるし、なるほどそういう事なのかと思ったりもする。しかし根本のところではやはりわからない。わからないというより、感じられない。なぜ、人はこの映画をそういう風に感じるのか?素で不思議に思う程だ。


はっきり云って僕には「世界公園」と呼ばれるあの場所とか、あそこで営まれている各人物達の生活が、少なくとも僕の目にはそれなりにまっとうで快適なものに見えているのかもしれない。あの場所はどこかに似ていると云えば似ているのかも知れないし、似ていないのかもしれない。というかそれ以前に(それゆえに)、僕と根本的に無関係な気がしてしまってならない。現実は厳しく(あるいは捉えどころがなく)、酷い境遇や悲しい不幸もあるだろうが、おそらくまあ、どこに行ったってあんなものではないか?とも思ったりする。心からの幸福で腹いっぱいになるのは難しいかもしれないけど、なんとかそれなりのなけなしの幸福感や満足感を燃やしながら、自分を騙し騙し、少しずつでも納得できる良い方向性を志向しつつ頑張ってやっていくしか無いんじゃないの?そんな風に思ったりもする。


…何だかふてくされたような事を書いているけど、まあこれらの言葉は八つ当たりの泡みたいなもので、要するに「世界」という映画の中の色々な出来事に対して、総じてあまり関心が向かなかったという事だろうとも思う。しかしなぜそう思ったのか、自分に問い合わせてみてもも判らないのだが…。


たぶんあの映画では、あるイメージに対してとても明晰で斬新な視界角度がすぱっと鮮やかに提示されているのだろうと思う。あの映画を観た皆はそれに拍手をしたのだが、現状の僕にはその角度からの見え方/捉え方に関して鈍感なのだろうと思われる。たぶんこの「世界」という映画以外の場所で、僕がこれからもっと何かを感じたり知ったりして、その後、いつかまたこの映画に戻ってきたときには、また違う印象も持つのかもしれないが。


ところでタオやタイシェンら「世界」の登場人物たちはたまに映画を観に行ったりはしないのだろうか?もし人生がどうにも満たされないと感じるなら取り急ぎ気晴らしに映画でも観たりすればいいのではないだろうか。まあ映画観るというのも結構かったるい事だし、観てもたぶん満ち足りたりはしないのかもしれないが。