「東京から考える」


東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)


先ほど読了。面白かったので自分としては珍しく結構一気に読んだ。埼玉の、国道16号線を行き来する車が窓から見える家に育ち、現在は足立区に住んでいる自分にとっては極めて「近い」感じがする本であった。というか自分はまさに「郊外」の人で、この本で言及されている「動物」そのものだと思った。快適さを無条件に求める「動物」としては、読んでいて結構納得できる部分が多い。大体、僕が小学生くらいのときの16号線というのは、もうほとんどバニシングポイントとかマッドマックスに出てくる砂漠の一本道みたいな(数キロ先にロッテリア第一号店がぽつんとたってるような)酷い状態だったのだが、20代半ばまでには所謂ロードサイドショップが大量に立ち並び始め、もうこの国道沿いをうろうろしていれば俺の人生はほぼOKだ、とか思ったものなあ。


とりあえず顧客(金を出す母体)の、まだ輪郭の曖昧なぼやっとしたままの要求を、システム屋とコンサルとかが共同作業で要件定義してブレイクダウンして仕様決定していく過程において「人間工学」とかそういうのを方向性の基準として決めていくのだと思うが、確かにこれだと全てが画一的にはなる。特にデジタル的なソフトウェアというのはモロに同一ソース・同一ロジックを使いまわせるので、一旦導入されて問題なく運用が軌道にのれば、もう完全なスタンダードとしてますます同じ内容がとめどもなく波及してしまう。「セキュリティ」も「バリアフリー」も多様性の幅が狭いため、急速に洗練の度合いを高めていくので結果的に景観はあっという間に同一化するのだろう。(24時間ゴミ出しシステムの話とかは、もし実現したらやはりちょっと便利かも、とか思ってしまう)


数ヶ月前、近くのコンビニがやっと酒類販売をはじめてくれて、これで24時間酒が買えるようになったので死ぬほど嬉しかったのだけど(でもまだ一回も買いに行ってないけど)、実際スーパーとコンビニとレンタルショップがあって、あとテレビがあってAV機器があってネット端末としてのPCがあって、そういう部屋でソファに座ってられたら何もいらないじゃないか、という感触は抗いがたくある。服とか家具とかも、マルイとか青山で買ったスーツとかコンランショップとかイルムズの何とかいう椅子とかあるいはユニクロや無印の服とかイトーヨーカドーの紳士服売り場とかはもはや全部「16号線」なのだと思う。いや、もはや手の届かない高級品ってあまり存在しないのだ。やっぱり全てボトムアップしたという事なのだ。人は動物だけど商品は「総中・高級化」したという感じだろうか。食い物だって、最近の居酒屋とかもダイニング何とか、とか創作系料理で何とか、みたいな体裁でやたらと高級感あるけど結局はファミレス居酒屋だし。どんなに高級で文化伝統レベルの高い店でもグルメ情報産業に反抗したり無視するような料理なんか出せないだろうし…資産数億の人がつぼ八で呑むのは逆に全然ヘンじゃないかも。…


という訳で、結構重い気分で読んだ。結局サラリーマンとして働いていてそういうものに加担しているというのか、それしかない閉塞感みたいなのはあるし、でも日常の快適さというのは、きっと感じてるのだし。。


「世界公園」…まだ云ってるのか?っていう感じだが「世界」というあの映画で良かったと感じた部分は、実はものすごくいっぱいある。音楽なんかもすごく良い。あのステージで踊るときの、やや古臭いダサめなハウスサウンドとか、普通にいいなあと思ってしまう。踊るシーンは少ないけど、すごく良いのだ。楽屋の感じも良い。ああいうのが「郊外の快適さ」なのでは?とか思ってみたりもする。


あと、今日はVHSにて「クーリンチェ少年殺人事件」を観た。この大変有名な「名作」を僕も遂に体験した、という事だけ書き記す。。