「どこまでも見る」


ダンサー・イン・ザ・ダークという映画の中で、視力を完全に失いつつある主人公が、そんな自分の運命を受け入れつつ肯定して「私はもう見るべきものはすべて見た」と語るシーンがあった。…僕なんかは大したものを全然見ていないし、仮にそのような悲劇が襲い掛かっても(自分の死を目前にしても)現状ではとてもそんなすごいセリフは口に出来ない訳だが、遥かにそれ以前の相当浅瀬の段階で、ちょっと気を許すともう、見る喜びなど簡単に放棄して、見たいものしか見ない人へと簡単に戻ってしまう所に注意した方が良いくらいだ。


「どこまでも見る」というのは、まだ定着できない、確定できない、判断できない、まだ動きたい、まだ生きていたい、まだ死にたくない…という事だと思う。


しかし「どこまでも見る」という意志それ自体は否定できないのだが、それはおそらく無理な事なのだろう。人間は「絶対に目を瞑らない」という事ができない。第一「どこまでも見る」事に一体どれほどの意味があるのだろうか?一口に「どこまでも見る」と云うけど、それは突き詰めれば本来相当過酷な事である。というか有限な時間と限られた社会空間の中で生きるのが人間なのですから、「どこまでも見る」というのは相当無茶な行為であろう。「どこまでも見る」事には、文字通り果てがない。見る対象が尽きないのだから当然だ。果てがないという事は取り付く島もないし決済もないし判決もないし喜びも悲しみも怒りも満足もないという事である。それは、いくらなんでも普通ではない、自然に反した、不健全な状態ではないか?人間だったら、何かしらどこかしらに落ち着いて、何がしかの(たまたま目前にある脈絡も因果もない、何てことのない)役割に自分をはめ込むべきではないか?たとえそれが自分の欲望にあわなくても。たとえそれが本当に正しいくて幸いな事だと思えなくても、自分に纏わる何かをちゃんと「逆算」して「前払い」するのが「大人」ってもんだ…。


まあ、僕なんかは実際のところ「どこまでも見る」などと心に思いつつ「まあ現実的にはこの辺で…」みたいな、まるで無期懲役刑なのに恩赦で出所してくるみたいな事を自分に許そうとしていて、あるところでリタイアして休憩所でもっともらしい事を言えるようなのを想定していたのだが…。。もちろんそれも決して悪い事じゃない。そうでもしなければ「生還」できないってものだ。そういうものでしょう?という気持ちがあったのだが、そういう考えは、残念ながらおそらく浅はかで、そんな甘い見通しではまったく駄目なのであるから、相変わらず「どこまでも見る」という事に意味はないし、それが何かの役に立つ訳でもなくて、只、見るという事を引き続き繰り返して、何の取り付く島もないし決済もないし判決もないし喜びも悲しみも怒りも満足もないところまで、行けるものなら行ってみなさい、お前なんかまだそのとば口にさえ来ていないじゃないか。そんな境地の遥か手前で、何を甘えて、御託並べてるんですか?と云われても仕方がない。気持ちを引き締めなおして引き続き見続けなさいって事だ。