「女が階段を上る時」


女が階段を上る時 [DVD]


CSで放映されたので再見。そうだっけこういう映画だったけ…と思い、初見時の印象に違和感を覚えなくもないのだが、いやもちろん素晴らしい作品である事は疑いようがないのだが、しかしこんなコテコテの水商売モノで、ギトギトした気持ち悪い中年と商売女しか出てこない映画だったっけ?と若干自分に呆れる。…まあ要するに、映画としてどうこう以前に、単純に高峰秀子が良いという気持ちだけだったのだ。その良さは二回目に見ても印象が変わらない。というか表情、しぐさ、話し方、すべてがますます美しく素晴らしい。これからも高峰秀子を観たいという欲望のためだけに何度でも観返したい。


まだ若い頃のふっくらとした丸顔もあれはあれで良いのだが、本作の高峰の顔のシャープさは素晴らしい。着物姿もやたらと決まっているのだが、なぜあれほど「良い顔」をしているのだろうか。当時おそらく30台前半〜半ばあたりの年齢かと思われるが、余剰分の落ちて貫禄の増した女性の相応な雰囲気でもあるのだろうし、あるいは照明とかの加減も大きいかもしれない。薄暗い店内の闇に浮かび上がるような、そこだけが強いライトで顔全面が白く吹っ飛ぶような明るさで、全体がすごく平面的でコントラストの強さだけがあって、表情やしぐさもそのような奥行きのなさに見え隠れするだけな雰囲気である事が大きいのかもしれない。高峰に本来特徴的な、頬骨から耳にかけての緩やかな肉付きや、顎の下あたりの丸みがほとんど確認できないゆえに、とてもシャープな顔の「面」ばかり強調される。


「結局、女は簡単に許しちゃいけないって思うのよ」「でも寂しいときだってあるでしょ?」「そりゃそういうときだってあるわよ。でもそういうときはブランデー飲んで寝ちゃうの。奥歯をぎゅっと噛み締めてね。」


美貌だが性根はしっかりしていて身持ちの固いバーのホステスが、厄介ごとに翻弄されて色々あって心身共に疲労して、体を壊して一時的に療養したり精神的に少しずつ崩れていったりして、いつしか間違った相手に体を許してしまったり、本気で賭けた相手に逃げられたりするという映画で、ありきたりといえば実にありきたりだが、まあこういう女性の、逆らえない流れに流されていく有様を眺めている事の楽しさは格別である。


しかし苦難の只中にある高峰に纏わり着く恋愛のイメージ、自分が成就した恋愛の中にいると想像するとき、そこに見込まれる期待とは何か?…それは越えられないと思われた障壁が奇跡のように帳消しとなる予感でもあるし、同時に、この私が抱える厄介極まりない様々な問題も一挙にクリアされてしまうような事でもあるだろう。いずれにせよ生きる喜びそのものが、自分にどっと押し寄せてくるような状態が期待されている。でも肝心の対象である相手のかけがえの無さはあまり重視されていないのだけど。それが水商売の哀しさで、結局すべての期待は裏切られるだろう。見込まれた瞬間は決して私の元に訪れない。…それはたとえ自分の思い通りの関係があっさり実現してしまった状況においてすら、きっとそうである。


加藤大介の正体が判明する瞬間の、幼児が三輪車で高峰の周りをぐるぐる回るシーンはそこだけまるでフェリーニの映画みたい。