「ふたつの時、ふたりの時間」


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ツァイ・ミンリャンという作家が作る映画は、たとえばわかりやすい一定の趣味に彩られている訳でもないし、箱庭的な御伽噺でもない。天国的な空気に満ちている訳でもないし、作家個人の拘泥や執念の具現化でもない。というか、それらのどれも全て薄っすらと含有されているのかもしれないが、全体はもっと大雑把で風通しの良い構造でできている。とはいえ、ツァイ・ミンリャンという作家が作る映画を観ると必ず、とてつもなく幸福な、閉じた円還的な世界に浸っている事の愉悦を感じてしまう。。一旦その中に浸ってしまえば、あとはこの上なく幸せな数時間を過ごせるという意味で、一度嗅いだら忘れられないくらい強烈な作家的芳香をどの作品からも漂わせている。


ツァイ・ミンリャンは決してわかりやすい題材を扱わない。むしろ理解に苦しむような、笑っていいんだか悲しめばいいんだかわからないような、そういう微妙なものばかりで世界を構成するのだが、しかしそれが却って切なくて寂しくて思わず苦笑してしまうような、我々の現実とスムーズに地続きであるようなイメージを圧倒的な細部によってみせる事で、過酷さに打ちのめされながらもそれはやはり、この上なく幸せな体験なのだ。


「ふたつの時、ふたりの時間」は僕が今まで観たツァイ・ミンリャンの中で一番好きだと、言ってしまいたい気持ちが今、ある。あくまでも観た直後の感想だが、本作はツァイ・ミンリャン作品の中で突出して素晴らしいと思う。素晴らしさが全編に散りばめられていて、それらを一々ここで書き出していたらキリがない。尤もらしくて簡単な言葉に置き換えれば、不在である事の寂しさとか孤独とかそういう事になるのだろうけど、そんなことばはこの映画の何も説明した事にならない。映画というのは結局のところ画面にあらわれている細部の些細な事の集積でしかないから、それを感じ入ったという事だけしか云えない(っていうか、それが幾つかしか無ければちょっと頑張って書こうと思うのだけど、良いところが一々いっぱいありすぎて書ききれないのだ。)(というか、実はかなり書いたのだけど嫌になってきたから全部削除削除!!!)だから、それらの輝くような細部をひとつひとつ反芻しながら、あれらの人々の姿を見つめている事の切ない寂しさと裏腹な、映画だけが感じさせてくれる嬉しさ、幸福さを噛み締めるしかない。


ちなみに…映画の感想を書くのって、特に「上級者級」になると、全体を通して観て、それで何かしらの骨格というかあるリアリティに貫かれた何かの一連の構造を「ごそ」っと引っこ抜いてきて、それを言葉で示す「芸」を競う、云わば上手に映画の「背骨を引っこ抜く」ゲーム。とも云えるのだろう。それは確かに、この世の中には本当に鮮やかな「技」が存在するのはよくわかってるつもりなのだけれど、でもそれが「映画を観る」という事の本質とは全く相容れない行為である事も確かだ。まあ確かに「語りえない」事に開き直ってふんぞり返っているよりは全然前向きで意味のある行為だとは思う。というか、そういう風にしかできないのだろう。だからそれはそれでいいのか。(そういうのを語るのっていうのは、たとえば愛情の行為として、何故男女はセックスしかないのでしょう?みたいな根源的というか無知からくる幼稚な疑いにすぎないのだろう)


で、とにかく映画の「背骨を引っこ抜く」ような、そういうゲームの規則を信じてそれに明け暮れているうちに、結局最終的に、「ここから先は僕にとってゲームの素材にする事ができない何かです」というような断片に行き当たるのかもしれない。ここが僕の「故郷(フルサト)」なので、もう「批評」の対象ではありません。判断不可能です。と告白するしかないようなイメージに出会うのかもしれない。。いや僕にとってこの映画の断片が「故郷(フルサト)」だと云いたい訳ではまったくないが。…さすがにそこまでではないけど、でも今の僕にこの映画の「背骨を引っこ抜く」力はない。「引っこ抜ける」と楽観できるとしたら、僕にとってこの映画があまり切実な印象ではなくなったときかもしれない。