「三月の5日間」チェルフィッチュ


http://precog-jp.net/images/5daysinmarch.jpg  チェルフィッチュ『三月の5日間』


この前観に行った「六本木クロッシング」では「チェルフィッチュ」も展示(紹介?)されており、それ用に編集された映像が放映されていたので僕はそこではじめて「チェルフィッチュ」を観た。会場にはDVDも売っていたので表題のやつを買った。


おそらくここでは「何かを語る」という行為に対しての、ほとんど神経症かというくらい繊細で配慮に満ちた畏れのようなものがあって、小説でも芝居でも絵画でも音楽でも実のところ「何かを作る/語る」なんていうのは本来、とんでもなく無神経で粗野な暴力的な押し付けがましい振る舞いで、作り手が事前にどれほど注意深く配慮しようが「作られたモノ/語られたモノ」がもつ意味作用は不可避的に何かを歪め、傷つけてしまうものなのだから、だったら最初から何もしなければ良いのだろうけど、でもそういう訳にもいかないから、とにかく何か、可能な方法をまさぐって、手探りでやってみて、できるだけ感覚に忠実である事を心掛け、つまらない遠慮や迎合で初期衝動を決して濁らせないように細心の注意を払って、それでなおかつ、私と同じ地平に立っている彼や彼女やその空間と直接地続きの何かを作り上げるのだと…勝手な想像だが「三月の5日間」から受ける強い印象はそんな感じであって、その文体的な面白みや、役者と「登場人物」の分裂/融合などの仕掛けが技法のための技法に留まらず、何か潔癖な倫理観に基づいて行われているかのようですらある、と云ったらちょっと云いすぎか。


とにかくいっぱい「若い衆」が出てきて、色々喋っているのに一々耳を傾けて、相当な集中力で一言も聞き逃すまい、その仕草や動作もひとつも見逃すまいという勢いで画面を見てしまう。全体の内容がどうとか、お話がどうとか、誰が誰なのか?とか、そういう事よりも、あの連中のどうでもいいような話ひとつひとつの、その話され方や身振り素振りや表情やなんかを聴き取り凝視し続けるだけで、そうならざるを得ないほど、奇妙で滑稽でリアルな登場人物たち。。ああ、こいつらまるでうちの会社の若い子たちみたいじゃないか。。彼らは誰とも知れぬ誰かに語るかのように、あるいは独り言のように、まさしくそのどちらともとれるような優柔不断極まりない態度で、意味を結ばないような未熟な言葉を放出し続け、腑に落ちる感じとか満足感とか達成感の決して訪れない事にあがきながらもそれなりに自足して満足感すら感じつつ、凝り固まった体を捻じ曲げたり足を交差させたり、お話を際限なく区切るかのように両腕を絡めて前後に揺すったり、踵の後ろ側へ重心を移動させて尻餅をつくギリギリまで粘ってみたり、そういう動作だけを執拗に繰り返しているのだ。。奇妙で誇張された動作といえばその通りだが、でも異様に現実そのままにも感じられる絶妙な不自然さである。正直、このあまりにも「剥き出し」な感じは若干、苦手である。若干イラつく感情を抑えがたいところもある。突き放して楽しめない。デモ行進してて「あーーー」とか云ってる奴とか、こんな奴と仲良くしたくねえなあ、とか思ったり(笑)それはうそだけど、しかしこれほど何も拠り所のない場所で俳優が演技しなきゃいけない事になってるのが、現代の世の中なんですねえ、という感じ。普段古い映画観てると、その登場人物を支える構造に慣れちゃってるんで、こういう剥き出し感のあまりの過酷さには寒風吹きすさぶ思いを感じなくもない。あのラストシーンとかも…寒いよなあ朝のATMって。。