「大人は判ってくれない」


大人は判ってくれない [DVD]


DVDにて。50年代のパリの、ロケ撮影された都市の様々な景色を見てるだけで素晴らしい。迷宮のような箱庭のような不思議な場所。冒頭の、移動しつつ足元から見上げられる巨大なエッフェル塔からはじまって、雑踏、古めかしい建物、店の軒先、街路樹、石畳の路地、行き交う人々、建物と建物の間に挟まれた薄暗い一角…。自動車は延々と縦列で路上駐車されており、その合間を主人公やその友人たちがすばしっこいネズミのように駆け抜けていく。ドワネル役で主演のジャン・ピエール・レオーは確かに怪物的な演技ですごい子役だと思うが、映画の中で「すごい子役」という印象だけが浮き上がってくるような事は無く、見事にその世界にはまっていて、その中に生きている。


そもそも何日か前に観たツァイ・ミンリャンの「ふたつの時、ふたりの時間」という映画にこの映画の一部シーンが引用されていて、このときの印象が忘れられなかったので改めて本作を観てみようと思ったのだ。ツァイ・ミンリャンの方も映画の半分はパリが舞台で、あのような映画を作る過程で本作を引用してくるというのは、多少わかり易く図式的過ぎるし、偉大な映画の歴史に如何にも依存してしまっているとはいえ、すごくよくわかる。「大人は判ってくれない」を観た後だと「ふたつの時、ふたりの時間」という映画もますます愛おしくなる。都市の中で感じられる寒くて孤独な疎外感を、時間を隔てて捉えたふたつの映画だ。


この映画はいわゆる「十代の反抗」みたいな、そういうわかりやすいもっともらしさで説明できてしまうようなものではない。ドワネルという子供が感じさせるリアリティは、もっと複雑で深い色合いをもっている。日常への苛だちとか無理解な大人とか、そういうわかり易い描写は出てこない。というか、出てきたとしても意味に回収されないで消えてしまう。映画は全体的にテンポ良く、快調に進んでしまう。確かにあの両親の印象は反抗の対象として申し分ないと思うけど、でも何というか、それぞれの描写はかなり大らかというか、あの両親は単なる「悪役」という位置づけではない。父親も母親も非常に気分屋であるが、機嫌の良いときはやたらと幸福そうなのだし、ドワネルも楽しそうなのだ。3人で唐突に映画を観に行って帰ってくるときの爆発的な盛り上がり方など、どう見ても幸福な家族そのものである。父親も母親も、教師たちも、ちゃんと生きている人間の厚みがあって、「イヤな奴」として単純に嫌いになれないのである。エピソードひとつひとつが、それ自体としての新鮮さを最大限に生かすように置かれているといったら良いのか、全ての出来事がそれ自体でしかなくて、主人公が反逆していく事の説明とか理由に従属していない。それここが強いリアリティを感じさせるのだと思う。…そして何というのか…全ての細部に個性と云って良いような独特の強い魅力がある。おそらくそれぞれの描写の手つき自体に作り手の確信が込められているのが感じられるので、それが強く「香る」のだろう。


例えばドワネルが家出をして、真夜中の街をあてもなく彷徨い、店舗の前に積まれた牛乳瓶の入ったケースから一本の瓶(巨大な瓶で子供には大きすぎるくらいの)を盗んで走り去り、周囲をうかがいつつ急いで飲み、その後、空きビンをすばやくそっと側溝の排水口に捨てるシーンがあるのだが、このとき、さっと手元から消えて排水口の穴に吸い込まるように落下した牛乳ビンが、1秒後くらいに下の奥底の方から「がしゃーん」とガラスの割れる音として返ってくるときの新鮮な衝撃は、何度観ても本当に素晴らしいと思う。あの一秒の静寂を空けてガラスが割れるというその音だけで、真夜中の寒さと空腹のさなか、唐突に自分の足元の数メートルか数十メートル真下に下水道とかの地下の存在が感じられ、都市空間が自分の見える水平方向とは別の上下方向にも広がっているかのような予感が一挙にせりあがってくるのだ。それが、孤独や寒さの予感と織り交ざってなんとも云えない強烈なリアリティをたちあげるのだ。