顔、あるいは制度を支える自意識について


まず誰でも本来、好ましいと思うおぼろげな記憶というか、喜びを誘発させる感触というか、心のどこかに引っ掛かっている何かとか、いずれにせよそんな、かなり曖昧なぼやっとした「何かのイメージ」を抱えているのだとする。で、そういう内面のごちゃごちゃ未整理なままのイメージがあって、一方ではっと気づくと、今この現実の空間に自分がいて、そこは美術作品の展示会場かなんかの場でそこに自分の体を直接晒している事に気付いて、さらに実際に目の前に何か「物質」があって、その事と元々抱えていた「何かのイメージ」とのぶつかり合いがスパークした瞬間の驚きを感じて、何かの感情が揺り動かされたとき、それを「本当の喜び」として信じられるか?が問題だ。それが信じられないと、いくら美術だと言われたって、もうどう頑張っても、物質は物質でしかないだろう。


で、幸いな事に何か喜びの瞬間が訪れて、それを「本当の喜び」として信じつつ今そこに居るとき、その目の前の物質が、世間一般では「美術」と呼ばれているような何がしかの制度らしくて、だからそれは制度化されている以上、きっと私が何度でも反復利用できるのだろうから、今私が感じているこの喜びの感触もどうやらこれ一回きりではないらしい、という期待が見込まれるだろう。当然この制度はおそらく私以外の誰かにとってもやはり喜びをもたらし、ある程度共有されてもいるのだろう。。いや私ですらこうして喜びの中にいる以上、他の人達は私なんかとはくらべものにならないくらいの喜びの中でずっと昔から当然のように楽しんでいるのではないだろうか?それは大いに期待できる筈だ。この私が感じている喜びや揺り動かされる感情は、決して今の私の中だけで完結するものではない。実はここより他の場所でもっとよく理解されているのだろうし、もっと確実に把握して掴める方法があるのだろうし、見事に明快な言葉に置き換えて説明がつくような事なのかもしれないし、様々な変則パターンなんかも束ねてもっともっと拡張するだろうし広がり得るものだ。考えてみればそりゃそうだ。たぶん人間は「自分だけしか楽しくない」事をずっとやっている事は出来ないのだ。!だから皆がそれを考えているような時間と空間が、きっとあるのだと…


…というか美術と呼ばれる制度に関わって、何がしかの喜びを求めるというのは実は案外大変だ。最初の喜びを何度でも召還してくれるような美術との出会いを繰り返せるなんて素晴らしい事です。もしそれが上手く行かないとすれば、それは美術の制度が制度として未成熟だからとか、そうではなくて(それもあるかもしれないが)、それよりも元々、美術というものはとても肌理の細かく柔らかなサラサラした成分でできていて、「制度」とか「枠組み」に生じている亀裂や欠損などに遠慮なく沁みこんで、そこから水漏れや腐食を生じさせるほどの侵食性をもつようなものだからで、その水漏れや腐食の有様を見て喜ぶのではなく、柔らかなサラサラした感触自体を感じて喜ぶ事ができるか?が大事なので、そういう神経の使い方が疲れるのだし…というか、この社会のシステムの只中で適当に楽にやりつつシステムの強化に大いに加担もして報酬ももらいつつ、同時にそのような柔らかなサラサラした感じとも直接触れ合おうとする以上、それはなかなか一筋縄ではいかないのであって、結構疲れるのも当然なのかもしれない。やっぱり生きている中で、自分にとって美術というものがいつ如何なるときにどのようにして立ち現れるのかは予測が難しいし、現われる力自体も、恐ろしくささやかで慎ましいものでしかない場合が少なくないから。


そのようなか弱き力の行き交いを支え、不特定多数への伝達率を向上させる為にこそ、美術の制度は維持されなければいけないのだけど、それはきっととても難しい事であるのだろう。しかしそれに身を挺する少数の人々が確実に居て、その人たちのおかげで、美術は美術としての体裁をかろうじて保っていられるのだ。やや倒錯的だけど、とてつもなくみすぼらしくて、立派さの欠片もないような体裁であればあるほど、その制度維持への努力が労われるような、美術の制度とは例えば、そういった性質のものなのかもしれない。僕はそういう、美術のような柔らかなサラサラした扱い難いものを捉えて、制度下にほんの一瞬だけでも定着させてあげるような行為を仕事にしている人々の、繊細さと誇りを併せ持つ自意識に満ちた顔を見ると、ああ美しい人だなあと思う。美しい人間の顔。そしてそう思うと同時に、その人の背後にある風景の過酷さに驚く。うわあものすごいなあと。その人の快活な笑顔も冗談も、元はそのような過酷な風景から生じている予感と共にあって、それらを気にせず一緒に笑ったりする権利が自分にはないように思えてしまい、思わず尻込みしてしまうような、そしてその美しい顔にもほんのわずかだけ、その風景の過酷さが微かな影を落としているようにも見えて、それがあろうことか、その人に対してある疎ましさすら感じさせられもするのだ。いやあ、ちょっと引くなあと…ほんの少しだけの感情の揺れに過ぎないのだが。


しかし未成熟な制度に関わりつつも何がしかの喜びを信じ続けて求め続けるというとき、人はどうしてもその表情に何がしかの過酷さを湛えてしまうものなのかもしれない。だとすれば、それはその人にとって幸福な事なのか不幸な事なのか、すぐには判断できないのだけど、しかしそのような顔が魅力的である事はたしかだけど。でもなーーんも知らん。わかりません。どうでもいいです。責任逃れをします。ウソをつきました。私はやっぱりいい子だと思います。今のこのままの自分を抱きしめてほしいのです!とか言ってる人がやっぱりそれなりに魅力的な場合もある訳で、そのあたりについてはまあ…面白いですね。。しかし要するに、エドワード・サイードの横顔とかショパンの横顔とか、そういうのに心動かされ憧れるような事では駄目なのだろうという事かもしれない。やはり何かをし続ける途中でしか、新たな物事との出会いはないのだからね。何のためかはともかく、御託を並べてないで手を動かした方が良いよ、そうでない限り美しくはないよと。