チャレンジハンドシェイク(筒井康隆風に)


なんかこう、よく人が喋ってるときになんかこう、っていう言葉が多用されているように思う昨今なのだけれど、かくいう僕も人並み以上によく使っていると思う。それで最近、日常会話において、このなんかこう、が異常に気になるようになってきた。話をしていて、相手が言いよどんだときなんかになんかこう、とか云われると「うわ!ほら来た!!」と心の中で叫ぶ。でも自分も、言いよどんだりしたときなんかについなんかこう、と云いたくなるので「うわ!ほらなんかこう、来た!!」と思ってそれになぜか反発している自分というのもいつのまにかいて、その無意識に出てこようとする言葉を無理に飲み込もうとしてるんです。そうすると全体が妙にぎこちない感じになって、そうするとなぜか急にぎこちないを通り越してだるくなって、言いよどみつつも言おうとしていた事についての責任主体でいられなくなってしまってもうどうでもよくなって、急速にやる気がなくなる。


っていうか、っていうか、っていうのも気になるといえば気になる。自分が話したことに対して相手がっていうか、で受け止めてはなしを引き継ぐのを聞くと、おいおいなんだよっていうか、で新たな話題にシフトこころみてんじゃねえよ、そのずらそうとさばく所作とかあなたらしさに満ちあふれててやたら気にさわんだよ。俺の話がこうむったこの宙吊りな棚上げのぐらつき感とかあとで回収してくれる気あんのかっていう気分にもなるのだけど、かなり以前からなごやかさのプライオリティやや高め設定なんでそれはもちろん腹に収める。それにそれとは別のときとかに自分ももちろん気づかないレベルでがんがんっていうか、多用しているに決まってるし。くい物に醤油かけるみたいな軽はずみさで、自分の言葉のアタマにっていうか、を付けないではおれない。とりいそぎなんでもかけとけばいいやっていう勢いすら感じる。


だから多数の人々によってっていうか、もなんかこう、ももはや大体似たような用途で多用されてるように思う。これから自分が話す内容に関してこころもち揉みほぐしてるような、しばしためらってるみたいな、ワンテンポためてみるみたいな、ひとマス空けるみたいな、飲む前によく振ってみたいな、それまでの潮流とスムースかつ滑らかにつなげていくための、ぼやっとした思いをやや疑いつつももういいやって一気に音声言語形式にコンバートしてその勢いでがって吐き出す手前の軽いウォーミングアップで相手とのネゴシエーションっていうことなんだと思う。個人的にはなんかこう、は進行する処理にweightを掛けるようなニュアンスで使われっていうか、は進行する処理に条件下loopを促すようなニュアンスで使われてるように今イメージしている状態。それできっとっていうか、とかなんかこう、とかの適切さを見つめるまなざしがあるのだ。だからもう実際、複数拠点間においてっていうか、およびなんかこう、なくしてはいまや通信できないんだろうし、っていうか、となんかこう、が今、最もよく使われている接続のための認証方式として人々の間に浸透してきたのだと考えたほうがよかろう。でもそれ以外でももちろん通信は可能であるが。