偉い人/面白い人


大体において人は、自分自身のために頑張るとか、自分を信じるとか、そういう風に考えて生きるのは、なかなか困難なのだ。それよりは、誰かのためになっているとか、役に立ってるとか、必要とされてるとか、そういう予感を糧として生きているようなものなのだと思う。しかしそのようなイメージはあらかじめ先取りされた全体の中でふさわしい位置づけに収まった一部でしかないのだから、それを今この瞬間のリアルタイムな自分に嵌め込もうとしたって土台無理な話だ。


「私はこれが面白い」とか「私はこれにどうしようもなく心奪われてしまう」という状態を、何年も延々保持し続けるのは極めて難しいし、そういう自分自身を信じ続けるのも難しい。それが、仮定された全体の中でどのような位置づけとなる感情の一要素なのかが見えないまま、形振り構わずハマリ込むのはとても恐ろしいのだ。でも本来、その仮定された全体そのものに立ち向かわなくてはダメなのだ。


はるか大昔の幼い頃は、そんなめんどくさい事を考えるなんて夢にも思わなかった。そのまま頑張るといつか「偉い人」になれる道があるのだと思ってたのだけど、それはそうじゃなかった。いやもちろん世の中には様々な「偉い人」がいるけど、どのような分野であれ、それは自分を信じて、時にはあらそい、時には孤立しながらも、自分の道を切り開いていって、最終的に偉くなった人たちがほとんどで、それって本当に獣道をやって来たという荒々しい感じで、そうじゃないような、もう最初から偉い人と決まってるような和やかで穏やかな「偉い人」は、実質的にはあんまり偉くないと皆がちゃんとわかってるようなところもあるらしくて、でも僕の場合、生まれつき先祖代々文句なしに偉いという人がこの世には居てそういう人がいる世界がこの現実で、そこに僕も生きてるのだと素朴に信じていた瞬間も、かつてはあったように思う。