「風櫃の少年」


風櫃の少年 [DVD]


はじまって一分か二分で、もうこれから、この映画の世界で起こるすべての事を受け止めるのだという喜びと強い期待感に満たされるほど、風櫃(フンクイ)という土地の風景がすみずみまで本当に良い。物語は、血気盛んで愚かでかわいい少年たちのお話なので、彼らの行動やしぐさや表情をひたすら見るだけなのだが、このとてつもなく豊かな風景を舞台に、彼らは始終、ぽかぽか殴ったり蹴ったり打たれたりしながら、ぎゃーぎゃー騒ぎつつ、全力疾走で逃げ去りつつ、画面の端から端へ右往左往するばかりで、それだけといっちゃあそれだけの映画で、なんともベタな青春の一ページ以上のものではなく、気恥ずかしい感じすらあるものの、そう理屈では思いながらも、全ての画面上におこる出来事をひたすら楽しむ。…まあ最近、さすがに師走の感じでばたばたと忙しくて、時間の余裕もなく気持ちも忙しないので、映画を見るコンディションとしては良くないのだが。でも一瞬うっとりして、次の瞬間我にかえって、でもまた次のシーンでうっとりして…というようなほとんど集中力が継続しないような感じ。だから「いいなあ」と高まる感情自体の妙な浮き上がりの新鮮さというか、自分の内側に起こる変化をいつもよりくっきり意識しながらの鑑賞。。


顔が陥没してる父親とか、賭金を誤魔化された子供の執拗な抗議から滑らかにそのまま集団の大喧嘩になるとか、へっぴり腰でニワトリを殺すのが怖くてきゃーきゃー言うとか、とにかくもう素晴らしい瞬間が目白押しだが、そもそも映画の作り手は映画をどの程度、コントロールできるものなのだろうか?たとえば「珈琲時光」で一青窈が隣からお酒を借りたときの母親役の余貴美子が娘の遠慮ない行動にびっくりしてしまってお隣のおばさんに「やだすみませんどうもいつもお世話になってますーやだーちょっとお母さん恥ずかしい、なんかほんとにすいませんどうもーやだー恥ずかしい…」とか恐縮してるシーンがあって、僕はあのシーン結構好きなのだが、あれなんか監督のホウ・シャオシェンは日本語のあの細かいテイストを絶対わからないだろうと思うけど、それでもこれで良い、というか、問題ない、と判断できてしまうのが映画なのだろう。だれの力でもなく只そこにあらわれた出来事が捉えられていて、それがそのまま素晴らしい事になっているのだ。


本作でも、少年たちがいて、その中の一人に年上の姉がいて、その姉が少年たちを見下ろしているような瞬間に起こる、なんとも甘酸っぱいような気恥ずかしいような、愚か極まりない中学生時代の頃の感覚が立ち昇ってくるような瞬間も、もうその作家の個性とかでは説明できない何かが起こってるのだと思う。もちろんそれは、自分固有の過去の思い出とかと勝手に結びつけてシンクロして、独りで勝手に良い気分になっているような状態とは、確実に違う何かで、それはもっと普遍的に人を揺さぶるようなものだ。今、画面で見ているような出来事が、自分の記憶に覚えが無いはずなのに、なぜか強い現実感というか、激しく豊かで深い過去の記憶に揺さぶりを掛けてくるような作用を促す事があるのだ。それはおそらく誰にもコントロールできないような、映画固有の作用なのだと推測するしかない。


…まあなんにせよ、あの姉さんはすごくいいわ。僕がもう少し若いときにこの映画を観てたら、あの姉さんを観るためだけにこの映画をアタマから何度もリピートしてしまいそうだ。(あんまり出てこないけど)仲間が麻雀している部屋の隅に、少年たちが固まっていて、姉さんが男の一人から金を受け取って、それをお小遣いとしてあげるときの空気。。少年たちにとっては麻雀も雀卓を囲む大人たちも奇妙に余所余所しいもので、なにやら会話をしてる姉さんと男の様子を、不思議に物珍しい思いで見つめるしかなくて、姉さんの方も、弟とその友人たちに対する、やる気の感じられない、だるさをまとった、かすかに優しい感じと、鬱陶しいから早くヨソへ追い払いたい感じの混ざり合った仕草で、それはまさに年上の女性の匂い立つような有様で、ほとんどその香水の香りがこちらにまで漂うようですらある。(兄弟だからこそ、やり取りにこのような絶対的な満たされた退屈とでも云いたいような空気が漂う。普通の男女ならどれだけ一方が高圧的でもそれは不可逆的に受け入れるための余地というか媚態を含んでしまうだろう。)


まあでも、こりゃあまりにも青春映画だなあ。顔がやや苦笑気味にほころぶ感じ。主人公と良い感じの関係になりかける女の子の如何にも80年代風な服装とかもかわいい。