「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」東京国立博物館


「みやびな公家文化」とかを全然知らないしあまり興味ないし、和歌や書や、そういう何かについて殊更に知識がある訳でもないし、見た経験を多くもつ訳でもないので、とりあえず何という事も無い印象ではあるのだが、しかし、まあとりあえず自分を抑えて展示されているそれらをゆっくりと続けて眺めているうちに、何かしらの手ごたえのような感触を感じはじめるのだからふしぎなものである。


とはいえ、それは「見て満足」という感じとは程遠くて、今も薄っすらと記憶に残っているそれらの印象とは、観た事の満足感とか愉悦感とはあまりにも違っていて、どちらかというとぼんやりした引っ掛かりというか心残りのような気分の残滓であり、宙吊りのまま、何かしらもっと見て、強く確かめるべきもの、感じるべきものだったかもしれない、というかすかな余韻でしかないのだけど。


たとえば、このかすかな余韻を手持ちの言葉(狭い範囲のありあわせの知識)に無理やりはめ込んで消化してしまう事もできるかもしれないけど、そんな事しても全然意味なくて、とりあえず「和歌」とか「手鑑」とかは、うた・詩・書…いずれでも在るようで、でもそれはそれとして、ちゃんと当時の社会通念における役割の中にもおさまっていて、そういう現れというだけでも、とても面白いと思えるけど、もちろんそういう理屈で云々より「和歌」自体の方が先にあったのだから、それを云々と考える事自体が馬鹿馬鹿しいのだけど、でも、いずれにせよそういう事を考えてもつまらないし、話がずれてしまう。


じゃあ何?というと、それは、単に僕がたまたま数日前に読んだ本の中の登場人物である西郷隆盛という人物を記憶していて、おそらくそこに引っ掛かっている。その人が泣きながら「もう死にたい」とこぼしていたような記憶があるのを、微かに気にしているという、極めて個人的な些細な事情なのであろう。この生きる兵器のような、軍人の礎みたいな、岩とか鉄でできた怪物のような人間が、なぜボロボロと大粒の涙をこぼしながら「もう死にたい」とこぼしていたのか?…それはおそらくこの人の手によって恐ろしくたくさんの事物が滅んでしまい、喪われてしまったからなのだ。いやこれは僕の脳内妄想ですけど。


だったらさっき博物館で見た古書もきっと、西郷隆盛が滅ぼした「喪われたもの」のひとつだろう。たしかにそれは、今も博物館のガラスケースの中に存在していた。しかし、それは単に存在しているだけなのである。たぶん。…おそらくそれは、もうちょっと違った何かであった筈なのだ。かつては。(現代も公家とかが存在している方が良かった、とかそういう話ではないです(笑)…)


…いやもう、ここに書こうとしたこれは理屈ではなくて只の思い込みであって、近衛の宝物と西郷隆盛とは何の関係もない。いやちょっとは関係あるところもあったとしても、それは別にここで書こうとしている何かとは無関係で、要するに何故だかわからないけれど、そういう風になけなしのきっかけとかこじ付けをくっつけ合わせて、妙な思い込みを重ねて、それの中に深く沈んでいく事に意味あるの?ってな話かもしれないが、逆に、そういう風にカラ元気出して思い込んでドンドン賭金を賭場台にベットしていかないと「人生」なんてショバ代払ってるだけで崩れてしまうのだと思う。だからそれで良いのである。


でももちろん「まあそれって僕の人生とあんまり関係ないでしょ」という疑いの気分も、ものすごくあって、そういう風にはまり込む流れへの疑いはすごく感じているのだけれど…。まあでも、それもいつもの事なのだが。