京都(洲之内徹「気まぐれ美術館」より)

馬込に越してくると、妻の使いで、子供がよく、山王のアパートへ、私に金をもらいに来た。妻が晩のお菜代にも困っていると察しはついても、そういうときは私にも金がない。ないと言うと、使いは子供だからあっさり帰っていくが、それが却って憐れで、私は二百円でも三百円でも、ポケットを浚えて、あるだけの金を持たせてやる。金に窮した妻が私に金をくれというのは当然だし、私も当然金をやらなければならないが、その当然に、私は殺されそうだと思うことがあった。


その秋は、もう一度か二度、京都へ行ったと思う。京都へ行くと、私は毎日朝から家を出て、ひとりで町を歩いた。妻はどこか四条鳥丸あたりの呉服問屋に勤めはじめ、子供たちは学校へ行くので、昼間は、家には誰もいない。町へ出ても、なまじ有名なお寺などへ行ってみる気にはなれなかった。博物館や美術館へも行かなかった。盛り場へ行くのもいやで、行きあたりばったりに市電に乗っては、これといって眼につくものは何もない、なんでもない町ばかり歩いた。白川の川沿いの道をいちどは通ってみた。他には京大裏の、古本屋や喫茶店のばらばらとある道などが好きであった。四条大宮のパチンコ屋でよくパチンコをした。


私の京都は、だからとりとめがない。二、三年後には私の出歩く先も変ったが、しかし、いまでも人と京都の話をして、お寺や仏像の話になっても、誰でも見ているものを私はなんにも見ていないし、名物の食いものの話が出ても何も食っていないし、相手は呆れてしまうのである。だが、その私の胸の裡には、到底話題にはしようもない、言葉にはならない、暮らしの侘しさや不安がいっぱい詰まっている。町の中を流れる川の水の音や、百万遍の交叉点の夕方の遽しさや、親類縁者へのひけ目や、家族のいる土地へ来ながら自分を旅行者と感じるそのうしろめたさや、そういうものが私の京都なのである。


京都の年中行事でも、私の知ってるのは大晦日の夜の、八坂神社のおけら詣りくらいのものかもしれない。家族が京都に移って初めてのその年は、年末に、私はもういちど京都へ行っている。正月も間近に迫った暮の二十九日に、


コド モビ ヨウキワルシスグ オイデ コウ


という電報が妻から来て、私は夜の急行に乗って京都へ行った。歳末の夜行列車は猛烈に混んでいて、ぎゅうぎゅう詰めの通路に立ったまま、暖房と人いきれでむせ返る車内でオーバーをぬぐことさえできず、汗びっしょりになって未明の京都駅に降りたが、家に着いてみると、重病人のはずの子供は布団の襟から顔をのぞかせて、おおきな眼をキョロキョロさせていた。言訳するように妻の言うところでは、二、三日前から流感で寝ていた次男が、昨日の午後、急に鼻血を出してとまらなくなった。妻は勤めに出ていて、家の中は子供たちだけである。アパートの隣人が医者に走ってくれたりして、その場はそれですんだが、勤め先で報らせを受けた妻は急に不安になって、店から私に電報を打ってきたのだった。朝飯のあと、妻はあわただしく勤めに出て行き、私は病気の子供の布団へ一緒にもぐりこんで眠った。夜通し列車の中で立ちどおしだった私の脚は、布団の中で握ってみると、ふくらはぎが石のように固くなっていた。