「マルホランド・ドライブ」


マルホランド・ドライブ [DVD]


予想より全然面白かった。二時間半の長尺が長く感じられないほどである。またこの映画でやりたかった事と「インランド・エンパイア」でやりたかった事がおおむね一緒である事もわかったし、かつ「インランド・エンパイア」こそが、持続するひとつの意識で続けられた仕事の結果、強烈にハジけた一作となって結実したのであろう事もよくわかった。


そもそも映画を観ていて感じられる「実感」のようなものが普通誰でもあって、その実感こそが、今この感覚が映画の体験(映画の良さ)なのだと思える根拠なのだろうけど、そういう根拠が、この映画においては恐ろしく頼りない華奢な土台の上に乗っかって明滅しているに過ぎないようで、むしろそれを、かなり嫌らしい悪意を含んだほのめかしによって匂わせてくれて、そうすると観てる方は何をどのあたりから実感すれば良いのかが疑わしくなってきて、そのために何を気にして、何を気をつけていなければいけないのか?何に安心すれば良いのかが定まらず、見る機能を安定駆動させ続ける事が不可能になってしまうような感じなのだ。それが、場合によってはオドロオドロしい音響とミエミエの詐欺みたいなお化け屋敷であったり金切声の悲鳴であったりするところが、おそらく僕なんかは体質的にちょっと駄目なのだが、しかし今回は、深遠な意味も伏線でも何でも無い様なギャグにすらなってないような空虚な1シーンとか、すごい肉体の金髪の白人の美人の、そういう西欧型美人ゆえの、絶望的なまでに内実の無いスカスカな空虚さとか、こいつばかだろみたいなマンガみたいなヤツとかの描写だったりするので、全体的にちょっと楽しかったし、これは確かにすごいと、はじめて思った。


たとえば映画監督の男が、異様なムードの夜の牧場で、まるで"あめ細工"で出来てるような感じの気持ち悪過ぎて笑えるカウボーイの格好したおっさんとやり取りするときの、何これ?と思うような掛け合いも良かったし、チンピラが殺しをやった後の阿呆みたいな展開も良かったのだけど…っていうか別に、カウボーイのおっさんのシーンもチンピラの殺しのシーンも「あれらのシーンがあのような感じでなければいけない」理由など何もないところがすごい。そのままで図々しく映画の上に居座ってるのである。


…というか、それに加えて本作が僕を面白がらせた最大の理由は、端的に云って画面に映っているものが、主に並んだり向かい合ったりして会話したり移動する美女ふたり(ナオミ・ワッツローラ・ハリング)であった事が大きい。この二人が美人の女性ふたりで、その美人性の内実の無いすごい空虚さまでをも含んだ美人ぶりを、ただ見てるだけで楽しかったという事であろう。。この二人の向こう側のハリウッド…豪華さ、浮薄さ、スタジオの撮影現場とか大邸宅とか会議室とか、大スターとリッチな年配達と俳優志望と周辺にたむろするチンピラとファミレスの店員や掃除夫たち…こういうブツブツと途切れがちな、錯乱する記憶の大雑把なつながりが、整合を無視したガタガタのイメージとして差し出されるのだけど、その只中でなおも続きを観たいと感じさせてくれ、興味をかろうじてつなぎ止めてくれてるのは、ミステリー的な謎の誘惑でもあるのだけど、それよりもむしろナオミ・ワッツの顔の表情ひとつであったりする。


ナオミ・ワッツは最初から、闖入者であるローラ・ハリングに優しいのだ。この映画ではナオミ・ワッツがひたすらローラ・ハリングの心のダメージや悲しみや不安に対して親身になってケアしようとする、その優しさと親しみに満ちた表情を見つめる。不安気な、目に涙を浮かべた表情で恐がるローラ・ハリングと、それをにっこりと微笑みながら見つめるナオミ・ワッツの顔。それが交互に切り返される。それにしても一体誰からの視線なのか気になって仕方が無いような、恐ろしく不安定で妙なところから撮影されるときにボヤッとボケたりもするカメラ…。


マルホランド・ドライブで事故が起きたかどうかをわざわざ警察から聞き出したり、新聞を確認してあげたり、ふいに思い出された名前を元に電話帳を探ってあげたりするナオミ・ワッツ。…彼女はどこまでも積極的に謎の究明に協力してあげる。やや躊躇するローラ・ハリングの背中を押すかのように、ナオミ・ワッツは彼女のために色々と世話を焼いてあげる。にっこりと微笑みかけたり可愛くウィンクしたり…超わざとらしい程にいい人である。…もちろんそれは世話を焼いてあげているのではない。それは物語の後半になるとわかってくる事で、それはそうじゃないのだが、それがたとえ憎しみや嫉妬の裏返しであるとしても、しかしやはり、それは欺瞞とか嘘とか、そういう事でもなくて、それはやっぱり、おそらく優しさとか(あるいは後ろめたさ?心残りとか?)呼ばれるような何事かの心の動きなのであって、たとえそれが、本来ならそのような私で居たかった、そのような関係で在りたかったという、自分本位な勝手な思い込みから来る振る舞いであったとしても。


…ショックを受けてしまったローラ・ハリングの髪を切ってあげて、カツラをさせてあげて、ベッドに横たわり、ふたりはそのまま同性愛的に愛し合ってしまうのだが、…このあたりも如何にもリンチという人の好みが反映されてるのであろう濃厚なエロシーンのひとつではあるのだが、抱き合って求め合うところを見てるのは、ふたりの感情の揺れ動きの行き着いた果てを見てるようでもあるし、…その後、ふたりで深夜に外出し、妙な劇場へ向かい、まばらに人の居る客席の一角に並んで座り、「バンドは居ない!テープだけ!」と繰り返される空虚な幻想のようなステージを見つめ、そこで、まるで天国よりも遥かな高みから聴こえてくるような、(おそらくはテープに合わせた口パクの)歌声を聴きながら、その実体の無い「歌唱」を聴きながら、寄り添いあって涙を流すシーンが、この映画でもっとも切なくも美しいシーンであって、これはさすがに、軽く泣けるし感動させられる。


いびつで混沌として不安定な、落ち着く事のできない場でかろうじて確保された視界と、少しの体温というか人の残り香のようなものと、結末の寒々しい孤独感と死の匂い。…もし、僕が何の前後の文脈もなくこの作品だけ見たとしたら「おぉー面白いなあ、デヴィッドリンチはやはりどう転んでもリンチなんだなあ…でもすごい高品質な、素晴らしい作品だなあ」とか、普通に満足できるような作品と感じただろうと思う。…しかし、この後、この監督はその後、数年後に「インランド・エンパイア」というのを作ってしまうのであり、僕は既にその事を知ってるのであった。