川俣正[通路] 東京都現代美術館


圧倒的に面白くて、会場を立ち去りがたい気持ちにさせた。これはかなり予想外の事だった。可能なら会期中、もう一度か二度くらい訪れたいと思った。…というか、僕が実際、川俣正の作品をまともに観て何か考えたのって、今回がはじめてなのだと思う。川俣作品を目にしたであろう機会は、おそらく一度や二度では無い筈なのに、なぜか今回は、はじめて出会った、というか、受容部が開かされた感じであった。


ベニヤ合板が壁のように立ち並んで、細い「小道」を形成している。小道といっても、どこかへ行き着く先がある訳ではなくて、別の方向から来た壁と交差したり、単なる仕切りでしかなかったり、迷路のような工事現場の迂回路のような、そのどれでもないような、規則性もなくただただ錯綜してるだけの感じである。しかし広大な美術館の内外のかなりの面積を侵食していて、その物量自体がすごい。空間の区切り方とか視界や移動を制限させ、ある種の圧迫を与える感じが、ベニヤで出来たリチャード・セラみたい感じ?…ただこの作品自体がそれほどすごいとは思わなかった。いやかなりの力で気持ちをそっちに向けさせて、心を開かせてしまう程度にはすごいのだが。で、結局そのまま、その気にさせられた状態で、過去の仕事を改めて観ててさらに感動した、という話なのだが。


この展覧会はとても大規模で複雑である。前述のような、美術館の空間全体を作品として提示しつつも、その作品の空間自体の中で、空間を利用しつつ過去のプロジェクトを回顧形式で見せ、別室にはアーカイヴも設けて、美術家・川俣正の過去の仕事の全貌をある程度把握できるようになっており、更に、それと同時に「Work In Progress」と称して、現在進行形の様々な「ラボ」を各箇所にて紹介し、関係資料やそっちの事業担当者とか責任者に日程を決めて観客に対してトークさせたりミーティングやディスカッションさせる機会も設けるなど、人々自由参加型の多方向同時進行主義を全面展開している。かつ、この展覧会を組織するための裏方スタッフ達や協力者たちの動きも、プロジェクト関係者エリアと鑑賞エリアの区切りがなく、スタッフが座ってるベニヤのテーブルに広げてある資料からノートPCのモニタ画面から、すべて背後をうろうろする観客の目に晒されており、要するにベニヤ合板が縦横に立ち並んでる向こう側やこっち側で、事務処理なんかも含めた今回のすべての事が行われているのである。(少なくとも見える範囲ではそう見える。でも美術館スタッフはもちろん別。)しかも、とりあえずの仮住まいとして簡易的に作られた感じが濃厚な中で、いわばオープン・ソース的というか、ノマド的というか、移住民族的というか、よくわからないけどそういう軽いフットワークですべてが執り行われている感じなのだ。カフェとかもあったり、即興のバンド演奏も行われてたり…という事で極めて壮大な、ほとんどライフスタイルの提示に近いくらいの感触を持つ、正に川俣正という作家の現在進行形という事になるのだろう。


ちなみに僕が今回大いに時間を掛けて観たのは、壁に大量に貼られている過去のプロジェクトの記録写真および完成予想図としての機能ももつがそれ自体としても極めて美しい木工レリーフ作品である。…川俣正というと今までどうしても、経験主義というか現場肉体主義というか、そういう妙な先入観を持っていて好きになれなかった部分が今回はすごくすんなり自分の中で溶解してしまって、そしたら写真の中の作業風景一枚一枚が、もうとてつもなくキレイで何度も行ったり来たりして飽かず眺めてしまった。


今回、かなり最初から「もの派」というのがすぐ頭に思い浮かんで、それをずっと頭に思い浮かべながら観ていた。これも、昔もの派が提示したイメージから派生した、とても美しいひとつの達成だと思った。川俣正の作品は適度に色気もあるし面白いし、うわあすげえ、と思わせるようなエンターテイメント的な要素もあるので、却ってそれが見えづらいのだが、自分の中の、もの派的アンテナの受容器が開くと、もう小さな写真に写ってる角材の並び方とか、はらっぱの真ん中に大雑把な「すのこ」が向こうまで伸びてるのを観てるだけで感動してしまうのだった。…あの会場に展示されてる全写真が掲載されている図録があったら絶対買うと思ったのに、そういうのは無かった。。