合理的取組み


絵の具とか顔料というのは「のせる」とか「こすりつける」とか「付着させる」ものなのだろうけど、同時に「剥がれる」とか「のらない」とか「かすれる」とか、そういうものでもある。思ってる以上に付着してしまった状態と、思った以上に付着しなかった状態の、もたらす印象は全然違う。僕は基本的に、画材というものを「剥がれる」とか「のらない」とか「かすれる」とかそっちの印象で捉えていると思う。鉛筆とか筆記具をしっかりと握ってガリガリと何度もストロークを重ねる方が好みだというのは、そのあたりに理由があるのかもしれない。


しかし、たとえば本当に貧しくて何の甘みも立ち上がってこないような、砂を噛むような空虚な地平が見えている状況に耐えられるだけの強靱な自己をもっているのか?といったら、ややこころもとない気もする。だから中途半端なところに落ち込む。一番良くないのは、制作途中の状態に不足や不満をぼやっと感じて、深く考えずに別の新たな仕事が発生する契機と捉えてしまい、脊椎反射的に加筆して微調整をはじめてしまう事だろう。またそのようなやり方をほんの少しでも自分に許すと、筆記具は途端に、こたえられないくらい甘美で弄ぶのが楽しい道具に変わる訳で、結局それに淫する。それの何がいけないの?ともう一人の自分が言ってる声もするのだけど。それで時間がたつのも、もうつまらないし。


本来の目的、というか、やるべき事だけをやった状態で、その時点で作品としてフィニッシュさせるために一番必要なのは、最初の綿密な計画と、作業中の確実で安定した描画行為の蓄積だろう。絵を描くのもやっぱり技術とか実績に裏打ちされた合理主義でやってかないと。