旗色不鮮明


要するにあなたは何者なんですか?どういう立ち位置のどういう人なんですか?みたいな疑問をもたれる事は多い。それを気にせず平然としているのは僕には無理である。というか仮に僕がそれで良くても相手の方で困る事だってあるだろうし、最低限「私は決して怪しい者じゃありません」という事だけは伝えたい。それが無いと何も始まらない。…そういう悩みは、どうしてもある。


私の出自だの私の旗色だのだなんて、この世の安心で安眠な、まやかしの愚にも付かぬ目印に過ぎない訳で、そういうのを平然と横断していく事こそが求められているのでは?なんていうとカッコいい。まあそれはそうだ。でもそうはいっても、現実ってほんとうによるべないもんだ。美術の展覧会なんかでも「要するにどこから来たヤツなのか?」があまりはっきりしていないという状態というのは、それなりに人を不安で疎ましげなムードに落とし込むものだ。


プロフィールも画歴も貼ってないしそれまでのギャラリーのラインナップとも微妙にずれてる感じだし他の類型にも収まりづらいし、そういう状態で初対面で作品に向かい合って、この作者は一体どういう人?と思うのはまあ当然の事だと思う。そういう事にこだわらず、あるいは大体こんな感じかなと脳内で補完してくれつつ、良い意味で無頓着に目の前の作品を観てくれる人というのは稀である。というか、作品は本来、そういうのをすっ飛ばして迫ってくるものであるのが理想なのだけど。そうは云っても現実は如何にもとらえどころのないものである。というか絵画もやはりある種、作品という物質ひとつで完結するものではないのだ。同一の人格が何度も何度も反復して同一の問題を考えている、というのが絵画の外で共有される場がないと駄目なのだろう。場がないと駄目、というよりは、そういう思考の実践に静かな共感をよせる心が複数集まってその場を維持しようとして、それではじめて美術が可能になるのかもしれない。


ちなみにここにブログと称して書いてる事自体は、自分の旗色とか属性みたいなものを指し示すという目的には全くむいてない。驚くほど何の役にも立たないように思える。ここでこのブログを書き始めて一年半くらいたつけど、これはすごく予想外な発見だった。当初はそれこそ自己紹介に最適な場にするつもりだったのに、いざ始まったら別に載せるべき自分の情報なんてあんまり無いし、自分自身の興味の範疇自体も無責任に揺れ動くので、結果的にはほとんどかつての自分が書いたのかもわからぬような怪しげな字がいっぱいあるだけの事になってしまって、目論見とは全然違う事になっていて、自分のふわふわした動きをそのままに記録しているだけのような感じだ。でもまあ僕としてはそれで良いと思ってる。