世界の中心で、身と魂を地獄にて滅ぼし得る者


相手に愛を告白するというのは本来、勝算もリスク回避も度外視した真剣勝負としての賭けであり、そのときの告白者の気持ちは大抵、悲壮なものである。現状維持に留まり続ける事にもはや耐え難く、この宙吊り状態がこの後も延々続くのならいっそのこと、最悪の場合すべてが台無しになったとしても構わないから、とにかく今まで積み重ねたすべてを、仮構された確率の地平に投げ出してしまいたいという、その思いが人を告白へと向かわせるのだ。覚悟を決めた自分自身を、今まで感じたことがないくらいリアルにひしひしと感じて、同時に、これからの行動が、周囲を動揺させ秩序を破綻させ、困惑や嘲笑を招き寄せずにはおかないような、ある種の混乱や暴力である事もうっすらとは理解している。でも…もし、そのような中でもあの人が、奇跡のように私の告白を喜んでくれたとしたら、意外なほどあっさりとこの私を受け入れてくれたとしたら、それはどれほど幸福なことだろう?それ以上のよろこびがこの世にあるだろうか?…そう思いながらも、それが決して現実には起こり得ない事も充分にわかっていて、それでもなお、自ら進んで崖っぷちへ近づくかのように、激しく高鳴る胸の鼓動を感じつつ表情を青白くこわばらせて受話器を握り、電話番号をプッシュして相手を呼び出す訳だ…。


…実際のところ告白とは、私を愛するか憎むか、どちらかの選択肢しか相手に与えないという状況の強要であって、その意味では悪意の表明に限りなく近いものであり、現在が戦争状態である事の事後通告にほかならないのだ。(関係ないけど、国家間での外交交渉においては、相手国に対して「今日から国交を断絶します。外交官も自国民も引き上げます。この後は我国の意志で勝手にします」と通達すると、それが自動的にお宅と戦争します。の意味になったのだそうだ。20世紀初頭の話だが。)


でも、それではやはり、この世に平和は訪れないのかしら?「斜陽」のかず子は「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と呟く。でも、かず子はやはり間違っていたのだろうか?…本を読むとか、音楽を聴くとか、絵画を観るとか、そういう事の体験があって、それについて文章で書くということの不思議さを思う。それらはいったい、何についての言葉だったろうか?わたしの中の何が、それらを書かせたのだろうか?…でも、上手く言えないけれど確信できる感触があって、読みかけの小説の、栞が挟まっている箇所をもう一度開いて、そこに並んでいる文字列たちを目で追いかけ始めて、前日のある時点で一旦凍結されていた筈の世界が、そこからまた再び、ばーっと蘇ってきて動きだすときの、あの感じ。芸術を体験するときの、無意識に体と心を調整して、少しずつ異物を受け入れていくとき、空間がひらくとき、そこには人間に本来ゆるされている大きな幸福があると、たしかに思えるのだ。


しかし、ほんとうに幸いな事を求めて、なぜか人間は往々にして「告白」したり「宣戦布告」したりするようである。そしておそらくは自分も、その類の浅はかな人間に過ぎない。その先を想像できるだけの力が、この先のわたしにあるのかしら?