黙認


やたらと居丈高に主張するのでもなく、黙ってじっと耐えるとかでもなく、必要なときに必要な分だけ、主張したり沈黙したりするというのは難しい。あるいは必要な分だけ与えるとか、ある時点を見定めて毅然とした態度で扉を閉ざすとか、それらすべてを自信をもって為すというのも難しい。まず自分がそれら一連の判断を担えるだけの能力をもってるのかに悩むし、判断ミスや根本的誤謬を叱咤してくれたりフォローしてくれるような存在が背後に控えてくれている訳でもない事が、あらためて心細い。しかしそこを気合いで飛び越えて、かろうじて実行に移す為のちからとなるのは、目に見えない想像上の場所できっとそれが承認されるという期待というか、そこへの信頼なのだ。要するに目の前にある事以上の、想像の中にしかない場所というものをどれだけ信頼しているのか?という事で、その信頼があるからこそ、本来まったく利害関係もないような相手に対して、気遣ったり愛想良くしたり議論したりときには堂々と文句云ったりする気にもなれるのだ。


しかしそれぞれの人間の頭の中にある、それぞれの想像上の場所はそれぞれひとつひとつ違う。その違いは人と人との断絶をあるがままに指し示すのだが、もしコミュニケーションというものが重要であるとしたら、おそらくそれはおのおのの頭の中の場所とかそれへの信頼を正面から語り合って比較し合うためではなく、あくまでもおのおのの信じている場所が違うということ、比較の仕様もないということ、そこで信仰されている神様が違うのだ、と云うことを、静かに黙認する事にあるのだろう。インドのガンジーが「今の時点で大切なのは、各宗派が争う事ではなく、それぞれを認め合う事だ」と言ったのはそのような意味だろうと思う。


しかし、今こうして書いていながら、その事の本当の意味というか感触が、まだ僕にはいまいちよくわかっていない事も事実だ。そこには何か、自己完結的な欺瞞がどうしても含まれてしまうようにも思われる。…そこでの「黙認」とは何か?それは「無関心」とは決定的に違うのだろうが、しかしコミュニケーションが成立する訳でもない。何も承認されないし、何も否定されない。その中間状態に耐えること…などと言葉で言うことの何という容易さよ…。本当にそんな事が実際に可能だろうか?やはりそれはあくまでも、ある特殊な囲い込みの中でのみ機能するものではないのだろうか?という思いも払うことができないのだが…。人間の一生がそのような黙認に支えられて、それで律する事ができるのだとしたら。…でもそれはおそらく、わからない人間には絶対わからない事だろう。殴っても蹴ってもわかってもらえないような事というのが、この世にはある。というか、それを諦めて認めることからしかはじまらないという事か。…こうして書いてる僕も、よくわからない