三島由紀夫「奔馬」より引用


書き写している最中はそれほどとも思わないけど、読み返すと如何にも三島という感じだ。恥ずかしい。書かなきゃ良かった。でも上がってしまった…

 さて、「神風連史話」の読後感に話を戻しますと、現在三十八歳の私は、ふしぎにも、この非合理に貫ぬかれた歴史的事件の叙述に感動を以て接することができたのです。私がすぐ思い起こしたのは、松枝清顕のことでした。彼の情熱は一女性へ献げられたものにすぎませんでしたが、同じように非合理で、同じように劇烈で、同じように反抗的で、同じように死を以てしか癒されることのないものでした。しかし私の感動の中には、今や安心してこういう事例に感動できるという保証があったのも確かなことです。今や私は、自分がそうならなかったのは既定の事実であるから、そうなりえたというどんな過去の可能性にも安心して目を向けることができるばかりか、そこへ向かって放射した自分の夢の、再びそこから反射してくる有毒な光線をも、何の危険なく身に浴びることができるからです。
 しかし、君の年齢では、感動はすべて危険です。身をのめり込ませる感動はみな危険です。もっと危険なことは、人を寄せつけぬような君の目の光りには、どうもこのような物語に対する或る「ふさわしさ」が生来具わっているように思われることです。 
 この年齢になって、私は、人間と情熱との間の齟齬がだんだん目につかなくなった。若い保身の慮りから、そういうあら探しをする必要がかつてはあったのが、今はなくなったというだけではなく、他人に宿る情熱の、その人との不調和が、むかしは大きな笑うべき傷に思われたのが、今では許しうる瑕瑾になった。神経質に他人の蹉跌に感応し、それによって自分も傷つくことを怖れるという、かよわい若さがなくなったせいかもしれない。それだけに又、一方では、美しさの危険よりも危険の美しさが鮮明に心に映り、あらゆる若さが滑稽に見えなくなってくる。これも若さがもはや自分の自意識と関わりのないものになったからでしょう。考えてみれば怖ろしいことで、私はともすると、自分の安全な感動から推して、君の危険な感動を、そそのかすような成行になりかねないのです。 
 それを知ればこそ、無益と思いながら、私は君に訓戒を垂れ、警告を発したい。「神風連史話」は一個の完結した悲劇であり、ほとんど一つの芸術作品にも似た、首尾一貫したみごとな政治事件であり、人間の心情の純粋さのごく稀にしか見られぬ徹底的実験ではありますが、この一場の美しい夢のような物語と、現在の現実を混同してはなりません。(118頁〜120頁)