大島弓子「ダイエット」について(vol.4)


「4.そうありたい私」と題したので、その言葉に沿うような気持ちで書く。先に一人で帰ってきた数子は、その後電話をかけてきた角松から、自分が店を出た後に遅れてやって来た福子の様子を聞いた。


「そりゃ オレは彼女に 嫌われてはいない とは思うけど 恋みたいに すかれてるとは 思えないよ」「それよりも どうも君が いないことを がっかりした様子で」

「オレ むしろ 福ちゃんは君の方がすきなんじゃないかって そんな気がしたな」

「その…友達として好きなんじゃなくて それ以上の何かを 感じたんだ」

「何かって なによ」

「わかんないよ」


それを聞きながら数子はある種の虚脱感を感じながらもなんとなく救われたようにも思っている。福子が角松に恋愛感情を抱いている訳ではなかったという事実に救われたのかもしれないし、濁った感情のない冷静で的確な言葉が、いろいろな事を見通しよくさせてくれて、おかげでさっぱりと全体が見通せたことに救われたのだとも言える。…そしてその直後、まだ角松からの電話内容の余韻が去っていないうちに、当の福子から電話が掛かってくる。福子は泣いている。、もう三ヶ月も生理が来ないと。


「ねぇっ 永遠に生理がなくなると 永遠に子供は生めないってことよね」
「それはあたし 困るのよね あたしは子供を もって いまのあたしを 超えなくちゃならないんだから」

「いまのあたしを 超えるって 子供をもつことで!?」

「みんな そう言ってるじゃない 子供をもつと 人間が変わるって」

「………」(とすると 福ちゃんは今の自分が 良くないと みとめてるわけか)


本作の中でもっとも切なく哀しくて、うつくしい瞬間がこの箇所だろう。数子は最後に「福ちゃんにとって、私達は両親のようなものなのだ。」「福ちゃんはは私達の子供だ」と断言する。ここでは何か、確実に新しい事が始まっているのだ。それは誰も挑戦したことのない、まったく新しい冒険である。


これらを書いているうちに、大島弓子の「ダリアの帯」とか「ロングロングケーキ」とかを読み進めているのだが、今はとにかくこの宇宙の中に絡め取られているだけみたいな状態なので、ほとんど冷静に何かを書くのは難しい。ここで書いてきたものももはや、今の自分にとってはあまり意味がなくなってしまった感じもある。しかし、ほかの作品も読んでいて感じる(強く心を揺さぶられる)部分は、どの作品にも共通してある、まったく新しい冒険への意欲、とでも云いたいような何かである。ひとりの人間が幸福になるための新しい挑戦。それはかつて「斜陽」のかず子が、あたらしい「道徳革命」を完成させようとした意志を継ぐ者達の挑戦のようにも思える。