「中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森」渋谷区立松濤美術館

 橋に向かうのは対岸に渡るためではない。
 傍の河の流れを感じながら、ちょうど、瞬間、瞬間の愛が連なって人生を形どってゆくのをかんじながら、人生が瞬時に現れる愛を時間への接合力とするのを感じながら、河に沿って歩いているとしよう。すはわち、横の系に流れる時間に沿って歩いている。
 人生と愛が互いに両者を随伴するようには、芸術は必ずしも人生、愛から必要とされない。だが芸術は何ものをも随伴せず、進行する独自のメカニズムを負わされているのか、芸術は人生と愛の上方にあり両者を観測している。
 そこで画家は河に沿って歩くことからはなれ、橋の上の人となる。橋を渡るためではない。河の正面を見るために。横の流れ、横の系の時間から方位をかえたのである。正面性の河から押し寄せてくる時間・縦の系の時間・時間そのものを見るために。
 絵画がかたくなに保とうとする正面性と平面性は、この縦の系の時間を受けるためにある。絵画は時間を真向かいから見、浴びるための、唯一の形式である。
「橋の上」1982年『みづゑ』春号より

中西夏之という作家は、その絵画作品もさることながら、何よりも書かれた文章のすばらしさが尋常ではないと思う。会場にいくつか掲示されていた文章を読んで、絵画と同等ないしはそれ以上にこころを揺るがされた

 君が僕の前にいるのはもう一人の君がいるからなのだ。君の花子がこよなく可愛いのも別のところの同じ花子がいてやはり可愛くしているからなのだ。この地上があるのは同じ、もう一つの地上があるからなのだ。「それなら君も二人いるのかね」と君はいったが、この地上にある総てのモノや人は仮想の地上にもあるが、僕だけは一人なのだよ。僕はこの地上の際にいて、接するもう一方の地上に片足をかけている。あちらの足をこちらに移せばこちらにいる、こちらを移せばあちらにいるというものでもない。なぜなら、その界に垂直に立っている画布があるから、僕もそうしていなければならないのだ。画布は境界そのものであり、あるいは両方の地上を切断するように割って入り、相似の二つが重ならないようにブレーキをかけ両方を同時に見張っている。あるいは両地上があることを保証している。
 それが画布の本当の位置であり、だからペラペラであり、それに呼応せざるを得ない僕はペラペラなのだ。
「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」より抜粋 1979年『ユリイカ』三月臨時増刊

かなりナルシスティックな感触も感じるのだけど、あるイメージを志向する人間の言葉の、つめたく毅然としたうつくしさがあるように思われて強く魅了されてしまう。イメージを思って、それを実現させるための手続きではなく、それを思う(慕う、あこがれる、願う…みたいな)その瞬間がリアルに凍結されてあるようだ。