あなたにここにいてほしい


ずっとここにいていいんだよ、と虚空に語りかけていた「アカルイミライ」の藤竜也は、あなたにここにいてほしい、という言葉を裏返しているだけなのかもしれない。でもその語る相手は既に、もうこの世にはいなくて、だから藤竜也はもうこのまま、ずっとここにいていいんだよ、と虚空に語りかけているその言葉を、今後その相手からも誰からも拒否されることはなく、誰からも咎められず、だからきっと、これ以上傷つく事もないだろう。それは悲しい事なのだが、でも、おそらくそんな地点にまで来ない事には、結局、おずおずとさしのべた手は常に拒否され、相手は必ずどこかへ行ってしまうのだろう。それがどれだけ好意に基づいた言葉の投げかけであっても、いやそれが好意であればなおさら、相手は自分から遠ざかるだろう。だからあの藤竜也のいる場所が、すべての人々にとっての終着地点なのかもしれない。


そういえば先日、あるところである人から、ちょっとした嬉しい事を言われて、それで僕が少し浮かれて、よろこびと照れくささと恥ずかしさで困惑・狼狽して、身の置き所が見つからず、どうしたら良いかわからない気持ちにさせられた。。…それはある意味、やや迷惑でもあるが、でもやはり大きなよろこびで、全く予想外の思いがけぬ出来事に不意打ちされたショックで少しぼんやりしたまま歩いてると、見慣れた筈の夜の雑踏の景色が、いつもとはまるで違うものに見えて、その中を僕がいつものように歩いているつもりなのだが、しかしなぜか地に足がついておらず、口元に手をあててないとつい無意識におかしくて、突発的な笑いが顔からこぼれてしまうような気分に包まれていて、そのまま足早に地下鉄の入り口まで歩き続けた。


でも、たぶん僕はその言葉を聞かなかった事にしてしまうだろう。そしてそれが出来ないのであれば、その人がいるその場所をもう二度と訪れないだろう。今までと何も変わりない状態を、そのままずっと保つ事はとても難しい事で、もし誰かの願いとか、強い気持ちがあっても、それが同一の空間で今まで保たれていたものを崩してしまうのであればお仕舞いで、あらゆるたくらみや、仕掛けや、挑戦は、好意から発したものであれ悪意から発したものであれ、動機がどうであれ、変わらずにあった筈のことを犠牲にしてしまうのであれば、それはやはり、無理なのだ。


でも僕はそのときたしかに嬉しくて、たとえそれが無理なのだとしても、そのときの僕にとってよろこびであった事は間違いなく、困惑はしたけど否定する気持ちはまったくない。なぜなら、結果とか、事の次第とか、考えの善し悪しなど、誰も事前にはわからないのだから。暗闇の先にあるのは可能性なのか絶望なのか、誰にも予測できないのだから。だからむしろ、その行為がもたらすものは如何なるかたちであれとても嬉しく、人をよろこばせ、人のこころを活気づけ、動かす力があるだろう。それだけはたしかだ。


だから僕はできれば、その事だけは相手に伝えられたらなあと、いやそれだけでなく、その事と、そのときの僕が嬉しく思った、という事だけでも、その人に伝える事ができたらなあとは思う。しかもできれば、それが今から何日も何年も経過した後の、もう誰もそんな出来事をおぼえておらず、何もかもが記憶の向こう側に流れ去ってしまってから、まったく新しい場所で、大幅に遅れてきた場違いな意味内容として、あらためて届ける事ができたらなあと思う。


でもきっと、それは不可能だ。それが現実なのかもしれない。だから僕はもう、二度とその人に会うことはないだろうと思います。