「フリータイム」テレビ放送を観る


チェルフィッチュの「フリータイム」がNHK教育で放送されたのを観た。言葉と身体の身振りとか動きというものとをバラバラに独立させたい。身体が言葉に隷属しないように、それらを別々にして、拮抗させたい、みたいな事を岡田利規は言っていたが、「フリータイム」の映像であらためて感じたのは、とにかく言葉がものすごく大量にあるという事で、それらの流れやうねりや集約と散逸の運動がすごく、どこに集中力の度合いをもっていくかにもよるだろうけど、体験の仕方によっては、演劇であるにも関わらす、ずっと眼を瞑って、言葉だけを聞いている事もできてしまうようなところもあって、いや一瞬そうしたくなるくらい、言葉だけで「いってしまう」ところも随分あるようにも思えて、逆に身体だけで成立してる瞬間というのを、もっと感じさせて欲しいという気持ちをうっすらと持ち続けながら観た。でもそう感じた理由はまさに、それらをテレビの映像で見ているからだろうとも思う。


「身体」といった場合、言葉が含むイメージにはっきりと「動き」が含有されていると思う。具体的にいえば、骨の周りに腱と筋肉が絡み、ぐっと伸縮するものを「身体」と呼ぶのだと思う。だから「身体」と呼ばれた以上、それは必ず動く。でも演劇という手段でまず最初に強いインパクトとして感じられるのは、私と同じ場所に全然知らないヤツが実在してる、という、その「居る感じ」ではなかろうか。そのとき、まだそれを「身体」だとは思えていない。それが動くという事もまだその時点では想像すら出来ない。動き始めて、それが「身体」だと感じられたとき、それは既にひとつフレームが成立してしまった後なのではないか。(個人的な話なのだが、人の、そのイメージを言葉で認識する際に、僕なんかは「人体」という言葉を使いたい、という気持ちがあった。というか、かつてはそう思っていて…まあ、そんな事を思い出させた。)


現実に、演劇を上演されている場として観る場合、それはもっとやたらと危なっかしい禍々しいものとして在るのだとあらためて思った。その感触をひたすら思い出しつつ、テレビを観た。役者それぞれの「顔」は、これはもうテレビで観た方が10倍くらいはっきりと明確にクリアに、どんな顔している人なのかがわかる。でもそれは「わかる」という事を超えていかないのだ。(実際に生でステージを観てると、役者の表情なんてほとんどわからない、というか見えないのだ。)


岡田利規×大江健三郎の対談で岡田利規が言ってた「僕は小説というものに関して、人生の経験とか読書経験とかがあまり無いが、役者の身体を見る、という事にかけては、強く自信をもっている。それは書く事に生かすことができるのだ」という言葉など、その確信をもった言葉の力強さにほとんど感動させられた。


あと岡田利規という人自身のの雰囲気とか語り方、声、表情なども、大変うつくしく端正だと思った。とくに言葉の選び方やあの声での語り方が素晴らしい。決して流暢に語彙豊かには語っておらず、むしろたどたどしいくらいなのだが、しかし頭の中に思い浮かんだ事を、絶対に妥協せず何とか音声語に変換しようと試みて、でも決して頑なに頑固になる訳でもなく、そうやってひとつひとつを丁寧に語る。相手が大江健三郎であろうがアナウンサーであろうが、まったく同じ調子だ。わぁ何て素敵な人なんだろうと惚れ惚れするような思いでテレビを見た。