30 minutes


朝の通勤電車で、昼休みの喫茶店で、帰りの通勤電車で…小説を読み進めるとき、ブツブツに途切れたこま切れの時間ひとつひとつの結合したものとして、読み進めている小説のイメージが脳内にある。とはいえさすがに、何日にも分けて読み進める事での分断の度合いが多すぎて、いわば刻みが入りすぎていて、もはやそれらを結合された一連のイメージとはほぼ思えない状態tなっているに等しいのだが。


そういえばチェルフィッチュの作品「フリータイム」に出てくる登場人物は、会社へ向かう際の出勤前に30分、ファミレスに立ち寄って、そこで一人で「自分の時間」をもつのだった。登場人物はその間、読書する訳でもなく音楽を聴くでもなく、ただノートに文字とも絵ともつかない何かを書き続けている。そういうのが、その人物にとってどのような30分だったのか?精神統一なのか甘い妄想に耽っているのかわからないが、いずれにせよそれがその人にとって素晴らしい、永遠に近いほどの何かを感じさせる30分だったりしたとき、それはその人にとって幸せなのか?そのあたりが何とも微妙にわからないながらも深く感動させられたりしてしまいつつ、というか、僕はそれになぜか不思議な反発心をおぼえながらも、でも自分だってやはり、芝居の登場人物同様、やはりそのような「フリータイム」をこそ、充実させたいのだし、そういう時間を沢山有して生きてゆきたい、と思ってる事も疑いようのない事実で、それは間違いない。


でもそれを僕の現実に照らし合わせるとどちらかというと、ある一定の時間の中で、無理やり自分の身体と意識を何かのカタに嵌めてしまいたくて、だからたとえば僕にとっての読書とか、あるいは音楽ですらそうかもしれないが、それはすなわちストレッチ運動をするみたいな、最初はまるで咀嚼できない異物のようなものとしての言葉を、自分の取り入れ口に何度も何度も読み込ませて、少しずつ慣らして、それでそのうち、そこに馴染んでくるのを待つ。のが、趣味というか体質として、わりと嫌いじゃないのだと思う。


30分が大切だ、それが永遠に近いだなんて、そんな事をいったら僕だって絶対そうで、自分だけの30分なんて、掛け替えの無い大切な時間に決まっている。その30分をとてつもなく輝かしいものにするという事を、僕だってすごく気にしているといえば言える。30分どころか、10分だって、意識してる事が少なくない。まあそれはわかりやすい具体例でいえば読書している時間の事になるだろう。読書していて、そのまま一気に高速で素晴らしい気分にさせてもらったとき、それがたとえば読み始めてからたったの10分足らずしか経ってなかった場合、うわーこの10分は素晴らしかった、と思うし、やや大げさかもしれないが、これからも生きて生活を続けていく中で、たまに読書もする中で、ごくたまにでもそういう10分みたいな感覚を今後も感じられるのであれば、僕にとってこの生活とか人生とかは、それほど悪いものではないはずかも、とすら感じたりもするくらいだ。


だからそういう自分だけの時間を大事にしたいというのは、まったくその通りだと思う。…でもそう思う反面、しかしそれらが、もしかしたら、誰かを見つめる別の誰かによって妄想されたイメージとしての希望でしかないかもしれないのだけど…というのがまた、「フリータイム」という作品の悲しく切なくもうつくしい余韻をいつまでも残すところではあるのだが。