「エル・スール」


これまでビクトル・エリセ作品は「ミツバチのささやき」と10ミニッツ・オールダーを観ただけで、あまり観たことがない。エル・スール」が今回上映されるということでついに観られると思って喜んで出かけたが、映画がはじまってしばらくは、そうか、こういう感じだったか。これがエリセの作品のもつ感触だったっけか、という事を強く感じた。つまりそれだけ無意識に何かしら先入観を持っていたのだろう。


映画は、まあ、あまりよくわからなかったといえばわからなかった。しかし主人公の娘がやがて成長して、やや大人びた表情になる後半が素晴らしかった。いや後半が素晴らしいというよりは、前半と後半で主人公の少女が成長する事自体が素晴らしく、自転車でさーっと走り去って、そのまま画面がオーバーラップして、月日が数年経過したことになったとき、また自転車で戻ってきた同じその娘をみて、10代の身体が成長する事の素朴な感動を感じた。


両親は父親も母親も、すごく知的な感じの、内面に厚みのある感じの、人間的な暖かさと優しさを感じさせる表情をしているように思え、話せば何でもわかりそうな優しそうな親御さんじゃないですか、という感じがする。父親の表情は威厳と親しみやすさが同居していて、娘に色々言われて気まずい雰囲気のときでも、露骨に困ったような情けない顔にならないところが良い。とても柔和でしっかりしていて、ちゃんとしていて、立派なお父さんだ。外見さえ立派であればそれで充分ではないか。お父さんとして誇らしいじゃないか。


終盤のレストランのシーンも、そういう父親と娘の対面のやり取りとして、実に素晴らしいもので、それは特にここのこの瞬間が良いとか、切り取って指し示せるような明確な良さとは違うのだが、何だかとにかくすべてが良い、としか言えないような感触をもっていて、とにかくこの、細長い店内の一番奥まった席の、上座に父親が、下座には娘が座っていて、他に誰も客はおらず、手前の入り口と洗面所のドアの脇には年配の給仕が椅子に腰掛けて控えている。そして親子が会話をするのだ。表情をぶつけ合いながら。「レストランで対話」という出来事が、見事に映画になっている。などと書くと上手く意味が伝わらないかもしれないが、観ていて、あぁレストランで食事して会話だなあと思い、その事だけで喜ばしいようなシーンなのだ。その撮影で使われたレストランの雰囲気が素敵だとか料理がどうとかいう意味では全然なくて、登場人物がレストランで会話して、そのときに起こった出来事の、その一連の、作り事としての出来事の、繊細きわまりない拾い上げがあるのだ。それはいわば、まるで現実であるかのような繊細さだ。いや、現実とは本来常に、決して繊細などという言葉ではあらわせない筈なのに。


父親の乗っているバイクは、高速で移動するような爽快なシーンはなくて、むしろ駐車してあるのを発見されて居場所がばれてしまったりする情けないバイクだ。それとくらべると、娘が乗る自転車は軽快で、15才の女子がぐいぐいとペダルを踏んで自転車を走らせ、加速していくのが一瞬だけの爽快感として残る。。そもそも15才の女子にとって、父親なんて如何ほどの存在だろうかとも思う。彼女にとって父親がどういう存在なのか、どんな風に感じているのか、あまりよくわからなかったといえばわからなかった。その後、療養のためとはいえ、これから「南」へ向かう、という事で膨らんでくる期待の方が、父親の記憶やそれまでの記憶などよりもよほど、この15歳の女子のこころの中に、強い内実を伴って広がり満ちるのではないだろうか?それまでの記憶と、これからの期待が、からだの内側で充分に拮抗するのではないだろうか?この娘にとってむしろ、物語はこれから始まるのではないだろうか。その浮き立つような期待が隠されてはいないか?…だから、この映画が捉えているある種の感触は、この映画の中だけで味合われるものというよりも、映画の終わった後に、主人公が体験する未来の時間の厚みを想像する事によって、また如何様にも変わっていくものなのではないか、と思った。


要するに、観て良いと思ったのかつまらないと思ったのかが自分でもよくわからないが、でもこの映画はまた、いつかかならず再見したい