「こうのとり、たちずさんで」


結構、興奮した。率直に言って大変カッコイイ映画で、またすぐにでも再見したいくらいだ。いや、そう言ってしまう事を躊躇したくなるところもあり、そういう言葉の狭い視野の自分勝手さを感じたりもするのだが、しかし、訳知り顔でしかめ面の言葉を書けば良い訳でもなかろう。そのあたりで、自分の態度をどうすべきかにやや困惑しながらも、でもやはりこれは面白かったし興奮した、と思ったように書かなければ嘘だと思った。でもたとえば絞首刑の遺体のシーンで、カメラが移動する事で少しずつクレーンによって高く吊り下げられた遺体がフレームの上方に入ってきて、それがむごたらしい出来事なのだという事がわかると同時に、さっきからずっと聞こえていた突拍子もない感じの奇声が、端に寄り集まっている黒い外套を着た一群の集団から発されていて、しかしまだそれが人間が漏らす歓喜の声なのか恍惚の声なのか、あるいは苦痛に耐える声なのかも判然とせず、しかしやがてクレーンがゆっくりと下がり始め、処刑されて吊るされていた男の足がやがて地上に触れると、寄り集まっていた一群がさーっと駆け寄り、群がって、黒ずくめの外套の団子状態となり、すでに全身を横たえている遺体を視界から覆い隠す。蒸気と白煙に煙る中、巨大な機関車がゆっくりと重々しく動き出す線路のその脇で、団子のようにひとまとまりに固まった集団はいつまでも動かず、そして相変わらず、歓喜とも恍惚の声ともとれるような、高く低くあたりをたゆたう奇声が、いつまでも耳に届く。いや、だからそれは、身内の死を悼み悲しみに打ち震えている遺族の漏らす嗚咽だということはすでにわかっているけど。


観ていて、むごたらしさや痛ましさを感じると同時に、それとは無関係なある種の熱い興奮も感じていて、それらが渾然となるのがアンゲロプロスだと思う。痛ましさと興奮の同居はある意味とても不謹慎な事のようにも感じられる。しかしこういう、歴史の一断面をモティーフにして、それを土台にして、そこに映り込む映像の強度を不自然なまでに高めようとする、一部の映画作家の熱く濁ったような情熱というのを、僕も今までの映画体験の中で、何度かは観てきている。痛ましさや悲しみが、そのまま幻想や夢へと昇華されてしまうような映画的魔術というのはあって、それは確かに映画が映画として必要とされている魔術のひとつなのだとも思う。その意味で映画とは不謹慎なものでしかないのかもしれない。


アンゲロプロスの作品はその意味で、本当にどこまでも映画だと思う。すごいと思うと同時に、映画っていうのは不謹慎なものだなあとも思う。20世紀とはつまり、人間の肉体などひとたまりもないような力のある機械をぶつけ合って戦争したり、火薬を炸裂させたり、生身の人々の頭上に見境無く空爆したりした時代の事で、そういう世界では人間は人間である事の根本を奪われ、今ここで起きた事がすべてとなり、肉体は簡単にはじけ飛ぶし、一瞬のうちに、あり得ないほどたくさんの生命が同時に失われるし、場合によっては、信じられないほど高い場所へ、その身体がぶら下げられたりする事もある訳だ。その悪夢の状況を何事もないかのように映像にする事が映画である。あるいは、わざわざ国境線の淵まで行って、線の上で片足を持ち上げてみる。重心を移動させれば、そのまま侵犯してしまうすれすれで、片足立ちのまま耐えてみせる。視線の向こう側に銃を構えた監視兵が居る事も意識しつつ、なおも片足立ちのままバランスをとり続ける。その後ろ姿の滑稽さを映像にする事もそうかもしれないし、あのマストロヤンニの娘と主人公が見つめ合う長い長いショット。あの、みつづけていて思わずつい笑ってしまうような、ほとんどどうしようもない間の長さであるとか、レット・イット・ビーのやかましく鳴り響く喧噪としか言いようのない状況を映像にする事もそうかもしれないし、いやそもそもあの、どこまでも続いている湿原と重々しい曇り空の空気の厚みそのものが…。


…などと、ややもっともらしい事を言いすぎているのでやめますが、映画一般の事がどうとかいう話ではなくて、だから単に、この映画は要するに、不謹慎でありながらも、かなり熱く興奮させてくれる映画で、またすぐにでも再見したいくらいの映画であったという話なのである、というところに一旦話を戻した上で、結局はやはりあの結婚式のシーンが、全体の白眉であろう、という話に移行して終わりたいと思うが、それにしても、アンゲロプロスはいくらなんでも、結婚式のシーンを考えて段取りしてカメラで撮るのが好きすぎるだろう?と思ったのだけど、そうでもなかっただろうか?いや僕は昔から「永遠と一日」の結婚式のシーンが好きで好きで仕方が無くて、僕もいつか、もし結婚したらああいう式をやりたいと密かに願っていたくらいなのだが、で、その願いは叶わなかったので残念だったのだがそれはともかく、ああいう儀式が、この世界のどこかに本当にあるのかないのか、たぶん無いのだと思うのだけど、でも如何にもな感じで、見てるだけで無茶苦茶感動してしまうのである。…本作の結婚式もある意味、極めて痛ましいもので、凄惨な状況下における共同体儀式の誇り高き存続を見るようで、それだけで胸を打たれるのだけど、でもそれが虚構である事の驚きというのもまた同時にあって、やっぱり映画だなあとつくづく思うのだ。


なお実は、この映画を観ていてしばしば想起したのが、ダムタイプの「S/N」とか「pH」とか「OR」とかの一連のパフォーマンスだったりした(僕はダムタイプに関してすべて記録映像でしか体験していないのだが)。虚構の儀式、という意味での、なんというか、今を生きる人々の自律性や誇りを失わないために、最低限必要とされる形式への希求というか、そういう儀式への欲望っていうのがあるのではないかと…。でもなんだかそれも少し、如何にもな、浅はかな、もっともらい感想のようにも思えて、それをここに書いてる自分自身に対して少し居心地の悪さも感じなくもないのだが。それは自分の浅はかさを恐れる気持ちでもあるし、同時にその書く意欲が、たちのぼるカッコよさとか熱い興奮に裏打ちされている、という事を恐れる気持ちでもある。


あと主人公とは最後まで仲の良いあの軍人の大佐のおじさんがいて、その明るさというか、主人公とのやり取りとかが、観てる方としては何か救われるものとして最後まで効いているのが微かに嬉しい。