磁力


絵を描くときは、自分が描いたときのその行為と、その描いた状態を見る、という体験の、目まぐるしい交差を頭の中で再構成して、それで善し悪しを判断している。描いているときと見ているときは常に分裂していて、自分自身が描く行為の最中にあるときは、どう頑張っても、それ以外の自由はない。その後、それを見ているとき、それはすでに、自分にとっての「描いていたとき」であることを、とっくにやめている。録音した音が、今、ほんのコンマ何秒かずれて、まったくの、いまさらのように、再生されて自分の耳に届く。…それが、絵を描くときの実感的な感覚である。しかしその再生音しか、手がかりはない。あとは想像しながら、あるいは過去の経験に照らし合わされながら進める。


それはダイレクト・カッティングのようなものだ。今この場の演奏を、直に、レコード盤に刻みつけていく。失敗したら、その失敗も当然刻み込まれる。


ダイレクト・カッティングに期待されるものとは、一回限りの真剣勝負の緊張感であり、演奏者と観客との純粋な関係を仮構するための必要最低限介入される媒介物の役割であろう。


つまり、絵画が、たとえば何かをダイレクト・カッティングした「録音媒体」のようなものなのだとすれば、絵画それ自体も、本来なら存在しない方が良いということになる。できるだけ媒介物なしで「届く」方が良いからだ。


磁気テープの発明は、音楽への取り組み方を激変させた。音楽が、その場一回限りの真剣勝負の成果としてできたものであるという枠組みから解放された。音楽は、スタジオ内で何度でも録音され、何度でも貼り合わせや切り離しをされて、一定の時間の流れの上に起こった出来事とはまったく別の出来事を生成させる事ができるようになった。


これは「音楽」の純粋性、還元性をなし崩しにしてしまった、と考えることもできるが、しかしそのように可塑的である事が、本来音楽がもっていた特質なのだと考える事もできる。


音楽にとって、磁気テープの発明およびそれを使って行われた様々な試みはおそらく、単純な「コラージュ」とか「アッサンブラージュ」ではない。そういう単純な足し算の可能性・ある区切られた領域内における配置の自由、などではまったく無いはずである。


そうではなくて、そこで起こった事についてもう少し考えてみる必要がある。この事はもっとも重要な事のように思う。