ゴーギャン


昨日のお昼前頃、竹橋で開催中のゴーギャン展に行ったが、予想よりも混んでなくて良かった。チケットを買う窓口など、長蛇の列になっても大丈夫なように、ものすごくたくさんの柵が出来ていて、誘導スタッフもあちこちにいっぱい居るのだが、別に誰も並んでないし、館内もいつもの比較的地味な展覧会と較べたらかなり混んでるものの、とくべつに大盛況、という感じでもなく、要するにいつもどおりの普通の竹橋の美術館なのだが、でも気合が入ってる分、妙に拍子抜け的なムードが漂っている感じであった。ゴーギャン展は、展示作品数はそれほどないのでやや物足りなさは感じるが、やっぱりゴーギャンは良い。良いと思う。実に良かった。でも、良い、と思いながらも、これはやっぱり、今ゴーギャンという画家は、たとえば現代アート的な観点からみたとき、今、アクチュアルな存在であるとは、言えないだろうなあ、とも思った。その理由としてはまず、象徴主義的な傾向があまりにも強すぎるという事で、それが描かれて作品として最後まで行き着いたことの駆動要因というか、作品の内部で百年経とうが二百年経とうがいつまでも常駐して燻っているはずの「そうでなければならなかった理由」というものが、どうしても「象徴」みたいな外部依存参照先に流れてしまいがちな点と、あと、いわゆるクロワゾニズム的なイメージが、すでにそれから1世紀分の時間を経た、幾多のイメージを踏まえて来てしまった現代の視点から見て、あまりにも古臭く見えてしまう、というあたりにあると思う。


というかクロワゾニズムというものについて、現時点でそれなりにちゃんと別途考えておかないと、これはこのまま見てもダメかもわからんなぁと思った。クロワゾニズムとは、よく言われるように、エミール・ベルナールによって試みられて、それを見たゴーギャンがおお、これはすげえ!これいいじゃん、と言って自分でも試してみて、やっぱこれいいわ俺もしばらくはコレ使わせてもらうわコレでいくわ、っつって、当時はそのまま、自分自身の作品制作における重要な方法論として中核に据えたものなのだろうが、当時ベルナールやゴーギャンにとって、この「効果」の何が、それほどすごいものだったのか?について、よくよく考えておき、そういう思慮なしで簡単にゴーギャンを「良い」とか言ってしまうのはそれなりにリスキーである事を自覚し、ある種の警戒心や猜疑心などを持っておかないと、ただなんとなく見ているだけでは、おそらく見誤るように思った。


たぶん100年以上前に、ポン・タヴェン派やナビ派の連中が「おお、これはすげえ!」と思ったときの感覚というのが、今の自分が、彼らと同じように感じようとしても、今の時点で、かなりイメージしにくいような事になってると思う。そのくらい、そういう「イメージのイメージ」が変わり果ててしまったからだ。たとえば今、ドラクロワを見て、当時の「おお、これはすげえ!」と思えた感覚を想像しながら、今も「おお、これはすげえ!」と思う事は、とりあえずまだ、充分に可能なように思う。(どうだか…)クールベを見て、当時の「おお、これはすげえ!(なんじゃこりゃ!)」を想像しながら驚くことも、まあ可能な気がする。でも、ゴーギャンのクロワゾニズムについて、そう思えるか?…ここが気になるのだ。当時の状況とか、そのあたりの人々を支配していた気分みたいなものを想像しづらいというか…。とはいえ…ここで書かれた事も充分に何かの罠に囚われてる可能性も高いが…。むしろ最悪なのは、当時の気分の新鮮さをそのまま担保にしてしまって、これが良かった、と言ってるのが良い!みたいな倒錯になってしまうことだ。なんか、書いてるうちにそういう気分にもなってくるのだが。。そういう倒錯的なところから入っていくのもアリはアリなのだが。それだけではつまらない。


というか、とりあえずゴーギャン作品の色彩とかたちというのは、これは本当に、キレイだと思うし、なんというか、まだ誰によっても定義付けされていないまったく新しい新鮮な感触に触ってる感じがあって、それがあの色と形で、ああいう画面になっていくのだと思うし、その(ある意味)ムチャクチャな混合状態と理知的な感じとのブレンド具合もすごく良くて、いやまさに、これぞ「モダン」ですね!と言いたくなるような感触があるように(少なくとも僕は)感じるのだが、でもそれを可能にしたものが、あのクロワゾニズムとか、綜合主義のもたらしたものではあるのだろうから、いや、その僕が感じている「良さ」が、クロワゾニズムとか綜合主義とかの「価値」とシンクロしてなくても一向に構わないとは思うのだが、でもまあ、そのあたり何が、このような作品に込められた期待の内実だったのだろうか、というのをある程度客観的に考えてみたいなあと思った。


それにしても、大原美術館所蔵の「かぐわしき大地」のタヒチ人女性をかたどる線のなんという美しさだろう。と思う気持ちには逆らえない。この揺ぎ無く境界をわける線のうつくしさは、ある意味、とても古典的なものだと思うが、その古典的な感じは、進化論者には単なる瑕疵というか、意味不明な反動に写るだろうが、別にそれはそれでまったくそのようなものとしてあるだけで、そういうのが別途、まったく別の要素とも平気で同居してしまい、結果的に「かぐわしき大地」は、見れば見るほど、実に奇妙な絵で、というか今の目で見たら、逆にすごく「普通」な作品に見えてしまうのだが、それを現代の目などというものが無い事を想像して、それ前提でみたときに、「かぐわしき大地」は実に変な作品であり、それゆえにもっとも面白い作品だと思うのである。「かぐわしき大地」のわけのわからなさは一直線な方向で仮構された美術史的な範疇ではまったく説明できない。「かぐわしき大地」という作品は、その何割かは美術だが、残りの何割かは、美術じゃないもので成立している、とも言えるのかもしれない。というか美術の歴史なんていうのは、たまたま、ああいう風になってるに過ぎないのだなぁとつくづく思う。


だからゴーギャンが面白いと思うんならゴーギャンを見ればいいじゃない、伊東深水でも、見るたびごとにうわーと思うのなら、もう深水を好きと認めて、何度でも深水を見ればいいじゃない。土田麦僊の事も大切に思えばいいじゃない、自分がそういう人なのだと認めればいいじゃない、と言われた。