「レコードの美学」やっと二章まで読了

レコードを何度でも聞けるということと同じ作品を何度でも聞けるということとは区別されなくてはならない。レコードの反復性は回帰する時間の中での差異に基づき、作品の再演可能性は前へと進む時間の中での同一性に基づく。レコードは回帰そのものによって肯定され、回帰のたびに差異を生むものであることによってその存在が構成されている。棚に並べられている限り、それは一つの「物」、動かぬ物であるが、何分、何十分かの"時間が書き込まれている"ことによって、プレイされるたびに回帰するのである。だがそれは同じ曲を二度、三度聴く、ということではないし、時間が可逆的であるというわけではない。回帰されるたびに「ふりだし」に戻るわけではない。回帰する時間は、ふりだしを持たず、差異の差異化として常に多方向にずれてゆく運動として生成される。何回繰り返しても「最初で最後」primultime、それは未来からみれば「最初」であり過去からみれば「最後」であり、「厳密にいえば最初の回はひとつの回の中にあり、たった一擲から成り、即座に古ぼけていく。そして生成の連続はこの古ぼけ(inactualite)を徐々に出現させる」。(中略)

コンサートにおいて作品は演奏のたびに異なる音響的現実を生むが同一性を固守し、レコードはプレイのたびに同一の音響的現実を生むが差異性を強調する。作品は再演されうるが反復されえない。レコードは再演できないが反復されうる。作品において「再び」現れるのは同一のイデーであり、レコードにおいて「再び」現れるのは異なる「回」である。


前にもある程度出てきた論旨のおさらい的な感じの内容ではあるが、矢継ぎ早に畳みかけるような感じで言葉が叩きつけられていくので無茶苦茶カッコイイ。この後「ハイ・フィディリティー(Hi-Fi)思想」の似非起源主義・似非自然主義指向への批判を絡めつつ、偽りの普遍ではなく模造性・反復性こそが差異として現実化される事を認めなければいけない、という風な感じで続く。最後まで引用したいのだが、長いので、とりあえずここまでにしたが、読んでいて大変高揚して胸が高鳴る。というか、ここで語られている事は本当に重要な事だと思う。自分にとっては少なくとも、学生の頃から今まで、理解の手前でもやもやしたままの状態だったのが、はじめてはっきりとした言葉を与えられた感じがあり、耳にきこえてくるその音とか、目に飛び込んでくるそのかたちとか色とか、そういうものすべてに宿っているある「震え」のようなもの、「揺るぎ」のようなものそれ自体を説明された感じに思えてはげしく興奮させられる。(でも「差異」だとか「ずれ」だとか、そういう言葉というのは、大昔からポストモダンどうこうとかで、散々耳にしてきた話なのかもしれず、今どきこういう内容に興奮してるのは世界で僕一人だけかもしれないけど、でもそんな事はまったくどうでも良いことなのである!!)