「引込線」で利部志穂の作品


所沢ビエンナーレ「引込線」で利部志穂の作品を観た。これが良かったのでその感想を書く。(前に銀座のギャラリーで観てから一年ぶり?かそのくらい…、と思ったら、今確認したらたったの4ヶ月前だった)


それにしても今日はとても良い天気だった。秋という季節の最も美しい天候と言えるようなものだったろう。空気は乾燥してひんやりとした感触であるが、日差しは強く、歩いていると軽く汗ばむほど。所沢ビエンナーレは、鉄道車両用工場が会場になっている展覧会で、場内はとくに空調設備とかも無く、薄暗くてだだっ広くて、雑然として荒々しい空間である。床に水でも撒いておけばそのまま黒沢清の映画のロケ現場になるだろう、と思えるような、まず工場内の空間自体の方がかなり強い印象で迫ってくるようなところだ。外の素晴らしく眩しい秋晴れの光に較べて、会場内の暗さがとても暗い。というか、会場内にいて、窓の外から除かれる外の光の眩しさがすさまじい。その日向と日陰の強烈なコントラスト。それがいかにも秋日和、という感じだ。まずそういうシチュエーションである。所沢は遠く、結構疲労したが。


利部志穂の作品は第三会場に入ってから向かって左側に、窓際に沿うような感じで数十メートルにわたって展開されている。というか、それは実際に観ないと、どこからどこまでが利部志穂作品か、ということは、一見しただけではわからない。少なくとも遠目には、あの辺に作品がある、ということすらわからないだろう。とにかく、そこまで近づいて、ああこれがそうか、と思ってから、歩いて、最後までみて、結局第三会場に入ってからしばらくして向かって左側の窓際の一番奥まったところまで歩いて、ここまで続いているのか、ということがわかる。


たとえばT字型の物体があって、それが、天井に渡っている交差状に編まれた鉄骨の梁の上から挿し込まれてTの横棒のところで引っ掛けられているとき、Tの縦棒のところは、梁から中空へとぶら下がるような感じになる。しかしその縦棒は(あるいはその縦棒に括りつけられて、縦棒の仕事を受け継ぐかのようにあらわれた長い金属の棒は)、地上にある大きな容器の底面を、片側から持ち上げているような感じになっている。そのせいで大きな容器は斜めになって床に自分の底面の角のところだけを設置させた不安定な状態のまま停止している。そのとき、Tの縦棒の部分は、中空にぶら下がっていて、上から支えられているとも言えるし、床にある大きな容器の底面を自ら支えているかのようにも見えるし、むしろ床にある大きな容器から、その重量によって支えてもらえているようにも見える。この説明が上手く言ってるのかどうかわからないが(たぶん超わかり辛いだろうが)、力がくわえられて、その影響がある、ということが連鎖している感じが、かろうじてそこまでも続いていく。それが続いていくうちが、作品。という事のようなのだ。それを歩き続けながら追っていくと、最終的に第三会場に入ってからしばらくして向かって左側の窓際の一番奥まったところまで歩いてしまう、という感じなのだ。


そのとき、何が持続しているのか?というと、おそらくそれは重力で、重力そのものは目に見えないが、ものがさまざまに変容しながらも、なおもそこに静止している以上、それは重力のおかげだともいえる。たぶん我々が普通、目でものをみるとき、その内実と共に、それとそれ以外のものとの関係というか、それが空間に対してどのように、そこにある事を「許されている」のかを、無意識のうちに確認している。例えばそれ自体が、宙に浮いたように自分の目の前に現れたら、たいていの人は物体そのものに対して印象をもつよりも先に、その物体をそこにそうあらしめている隠れた力の存在を探すことに躍起になるだろう。利部志穂の作品では、それが上から支えられているのか、下から支えられているのか一見しただけではわからないような現れ方が頻繁に出現する。いやそれはトリックを駆使してあたかも宙に浮いているかのようなイリュージョンを実現している、などという意味ではなくて、ほんの少し凝視すればたちどころに理解できるようなものでしかなくて、いや、その言い方自体がはずしていて、そもそもそういう仕掛けじみたたくらみなど一切感じさせないようなあらわれかたでしかないのだが、しかしそれでもそれは、そこにあり、重力の作用を受けている。むしろ重力下にあるありふれた物体たち、ということ以上ではない。それはむしろ、すべてのものが重力下にあるという事が、じつは驚くべき事だという事実を、新鮮に突きつけてくるような感じだ。


…とここまで書いて、それだとそれだけの話になってしまうので失敗だと思った。なんというか、たわみ、にしろ、おさえつける、にしろ、垂れ下がる、にしろ、結び合わせてつなげる、にしろ、とりあえず重力、ということでその事実に近づけるだろうと思ったのだが…書いてみるとそれではぜんぜん駄目そうだ。でもとにかく今日、はじめてこの作家の作品の、作品としての見え方というか、あらわれかたのようなものを感じることが出来たような気がしたのだが、それはおそらく、ものに対する力の加え方、というか、重力を調節するときのその按配加減、というか、ある癖というか体質というか、そういう、ものに対する力の加え方のさじ加減のようなものだったかもしれない。もちろん作家本人が力を加えている訳ではなくて、ものによってものを押さえ込むというか、もの同士で支え合わせたりするのだが、そのときのさじ加減具合に、ある固有性を感じられたような気もした。でも、そう思ったのは一瞬だけのことで、結局、観れば観るほど、まとまった言葉ははぐらかされてしまうのだが…。


歩きながら作品のありさまを観ていると、金属のワイヤーが、導線のように、床を這ったり上に持ち上げられて目の上のさらに高くに持ち上がったりしながら、どこまでもずっと延びていくのだが、そのワイヤーを、ところどころで、さまざまなものが、抑えたり、持ち上げたりしているありさまが一々おかしい。上手く説明できないので細かい事は言わないが、とりあえず笑ってしまう。しかし、いわゆる「突っ込まれるのを待ってる」というか「ここは笑うところです」みたいな感じでは、まったくない。そここそが素晴らしいと思うのだが、素材も様々なものを様々なやり方で組み合わせるのに、素材の面白みとか意外性みたいなものに、ほとんど寄りかかってないというのがすごい。たしかにそれが、望遠鏡の筒だったり、トロンボーンの一部だったりするのに気づくのは、ある種の面白みなのだが、でもそれは別段、気づかなければいけない事、という訳ではない。むしろ、それを実現させるために、たまたまトロンボーンのあのかたちと別の何かとの結合が程よかった、という経緯の方がずっと大切なもののように思われる。というか、その経緯こそが、そこでの役割の与えられかたと重なり合うのだ。この、経緯と役割の与えられかたが重なる、という事は、とても大切なことのように思う。それが上手くいくとき、作品というものは、良し悪しとはまた別の、ある特別な印象をたたえる。それは、なんというか、「無理の無さ」というか、自然さ、というか、味わい、というか、素朴さ、というか…そういう、なんというか、おそらく「品性」のようなものである。上質な品の良さ、といったようなものだ。


意識が、大雑把にそれら捉えてつかまえようとするときと、徐々に対象を絞ってピントを合わせて細部に向かおうとするときとあって、その段階は無数のグラデーションで構成されるだろうが、そのどの瞬間にも観るべきものがある、というのが良い。ミクロからマクロまである、などという言い方だとありふれててつまらないが、とにかく自分の頼りなく揺れ動く視線の先と意識の、そのどれにも何かしらを与えてくれるようにして、作品があるのだ。だから逆に、凝り固まった意識ではまるで無愛想…どころか作品としてたちあらわれないような在り方をしている。


作品は窓際に添って展開されているので、窓にガラスは嵌っておらず、たまに涼しい風が吹き込んできて気持ちが良く、作品も風に吹かれてかすかに揺らめく。ちなみに作品に添えて作家本人の文章を印刷した紙が壁に貼られているが、その文章も大変素晴らしいものに思えた。