場所


一日家でじっとしている。色々やろうと思うが全然上手くいかない。時間が過ぎ行くのをただ、眺めているだけ。久しぶりにビデオゲームなどをしてみる。下手なのですぐ死ぬが、しつこくしつこく、何度も挑戦して、たぶん一時間くらいは頑張った。失敗するたび、時計を見て、せめて、あの長い針が、12のとこに来るまでは、なんとかあきらめずにがんばろうと誓って、そしてなおも継続する。…その後、なんどもリトライして、結局、まるでかんばしい成績のひとつも残せずに、ゲームを終えた。アプリケーションを終了して、目がすごく疲労してる事に気づいた。モニタの光を見つめてぼんやりした。部屋の中を見回しながら、こういう煮詰まった退屈な感触は久しぶりだと思った。10年前くらいの感触だ。僕にとっての、僕が固有に感じることの出来る、生きているリアリティというのは、この超・煮詰まった感じの退屈さの事かもしれない。それは90年代後半のことだ。その感触は、20代後半の自分そのものである。会社に就職する前の時期。当時はまさに、今日のような気分の毎日がひたすら続いていて、まさに、超・煮詰まっていた。僕は煮詰まっている!という事をある日、自分で認めたのだった。そしたら、その瞬間から、かなり堂々とした、自信満々の煮詰まり生活がスタートしたのだった。完全に八方塞がりなのだが、気持ちは暗くない。しかし行く先も見えない、という状態。生真面目な人ならうつ病とかにでもなるのだと思うが、僕はそういう体質ではないのだ(という事をこの時期知った。気持ちはわりと、いつも平常なのだ。そのかわり、もう見てられない位どこまででもずるずると堕ちていくタイプかもしれないが。)ただ轟然と、開き直ってふんぞり返ってるかのようにして、煮詰まっているのだった。その態度、というか、そういう状態の自分にまだ、一縷の望みを賭けていたのかどうか、当時の気持ちは今となってはよくわからない。しかし結局、その後就職して会社員になって、金とかも人並みに入ってくるようになって、仕事もそれなりにするようになって、それまでの事は凍結されてしまったのだ。


でもやはり、あのときと同じ時間が、いずれ再来するのかもしれない。いや、自らその場所へ戻って行くのかも知れないなあ…と思う。恐ろしいことだが、結局はそこからはじめざるを得ないのか。というか、その感触の中でいつまでもいて、このまま何年たっても老人になっても、同じその場で頑張るという以外の選択肢が無いのだとしたら、そここそが僕が、僕の問題に取り組むための「場所」だということになるのだろう。正直それはもううんざりというか、切ないなーちょっとやだなーとも思うのだが、もうそれはあきらめてそういう事で納得するしかないかもしれぬ。日々が過ぎ行くなあ。もう9月も終わるし、もう何年も何年も、月日はどんどん流れていくことであるなぁ、と思う。いやがおうにも月日は過ぎ行くので、どっちにしても選択肢などないに違いない。