子供の頃、ホースの中に入っている水は細長い形のままでホースの中にいる、という事を想像していた。あるいは水道の蛇口から出る水も、その見た目から、水として細い形をしている、と思っていた。しかし水は無色で透明で、あのようにさらさらとしていて、触れば手が濡れるようなものであるから、そのようなものに細長い形がある、ということが、どうしても自分の頭の中で整合的に解決せず、いつまでもぼんやりと気持ちの悪い未解決な不穏な何かとして残り続けていた。


そもそも、濡れる、というのも、よくわからない状態だと思っていた。濡れるというのは、水というひとかたまりが、手に触れられたので壊れて、その細かくなった断片が手に付着しているような状態のはずだと思った。それは、そうとも言えるのかもしれないし、また別の言い方の方が適切なのかもしれないが、でもその言葉としての適切さを判断するような状況の以前で、今この現実の問題としては、手は、細かくなった水の断片が手に付着している、という感じではなくて、それはどう見ても、濡れている、と呼ぶしかないような状態になっていた。僕は子供の頃は、実を言うと、考えれば考えるほど、濡れている、ということの意味がわからなかった。


ひとつの解決、というかヒントを与えてくれたのは、当時読んだ「ふらいぱんじいさん」という絵本だった。この物語では、主人公のふらいぱんじいさんが、台所を飛び出して海に行くのだ。広大な海を見てふらいぱんじいさんは思わず叫ぶのである。「こんなたくさんの水をはじめてみた!水と言ったら、水道から出るあの細いのしか知らなかったのによぉ!」…この箇所に突き当たった僕は、生まれてはじめて、自分以外にも水道の水を「細い」と感じる人がいるのだということを知った。ふらいぱんじいさんも、水道の水の事を、そう思っていたのだと。さすがにそのときは、子供の時分ながらある種の感慨に浸った事を今でもかすかに記憶する。


カンバセイション・ピース」を読んでいてふと上記のような事を思い出したのだった。

この大きな葉に芯が取り戻される張力の原因が水だけというのも不思議というか説明不足の感じがして、生命力という言葉が浮かんでくるが、それでもやっぱり水なのだというのなら、水というもののことがまだ全然知られていないんじゃないかと思う。(新潮文庫216頁)