パイプ椅子


パイプ椅子に腰掛けている人物を見ている。そのとき、その人物がパイプ椅子に腰掛けている、という印象を感じているのではなくて、パイプ椅子に重さが加わっている事を感じている。そのパイプ椅子に感情移入しているのではなく、あくまでも人物を見ているのだが、しかし人物を見ていると同時に、その人物の重量という、そのように言葉にしてしまう以前の、かたち以前のかたちで、ぼんやりと存在している何かを、そのパイプ椅子が担っていて、そのかりそめのあらわれとして、そこに存在している。それを僕は、目の前の人物を見て、その人物と不可分な何かとして無意識のうちに意識しているはずである。


水鳥が波紋を広げながら優雅に水面を進んでいるけれど、水面下では懸命に足で水を掻いている、というのと同じようなものだ。ただしそのとき、水面と水面下を順々に想像してしまっては駄目だ。水面と水面下は同時に、一挙に想像されなければならない。水鳥は優雅さと懸命さを同時に併せ持っているのだ。人間もパイプ椅子に普通に腰掛けているけどパイプ椅子はその人物の重量として存在しており、そのときパイプ椅子に腰掛けている人物とは、人物ともパイプ椅子とも言えないある一塊として僕がそのようなものとして、パイプ椅子に腰掛けている人物を見ている。


繰り返すが、重量がパイプ椅子に支えられているのではない。そのようにパイプ椅子を重量の次に発見されるべきものと捉えてはいけない。重量自体は目に見えないが、そのときパイプ椅子は重量なのである。これは証明とか因果とかではなく、そのときのパイプ椅子から一挙に感じ取られなければならないような類のことなのだ。