救世


寒風吹きすさぶ中を東上野方面へと歩いていた。松坂屋上野店も師走の賑わい。忙しなさともの悲しさの混ざり合う雑踏。クリスマスの飾付で輝くネオンと、行き交う人々の無表情。すべての色彩が減衰していくのを感じる。かすかに、歌声がきこえる。どこかに設置されたスピーカーの音声かと思ったら、そうではなくて、歳末恒例の社会鍋で、軍服を着て立ってる救世軍兵士の女性が、雑踏に向かって実際に肉声をもって歌っているのだった。…まるでこの凍てついた景色全体に沁み込むかのような賛美歌312番の旋律の甘美さ。もう社会鍋の季節なのだなあと思いながら、信号が青に変わったので横断歩道を渡ろうと歩き出す。そのとき、先日の打ち合わせをもって遂に契約更新を諦め、双方折り合いつかずのまま決裂した、とある商談の相手が、横断歩道の向こう側からこちらに向かって、この僕を見つめながら歩いてくるではないか。あの人がいったいなぜ、今この場所を歩いているのか?ありえないだろう??…激しく混乱するが、いや待て落ち着け、と思い直し、いずれにせよ、もうすべては終わった事。もう後の祭りなのだから、今となってはもう、お疲れ様でしたと云って、色々ありがとうと云って、ご縁があればまたどこかでと云って、いや、そこまで云う必要もなくて、単に軽い会釈程度で、そのまますれ違い、後はお互いの進む方向へ向けてそれぞれ立ち去れば良い。それだけで良いのだと思って、静かな気持ちを取り戻して、口元に笑顔らしきものを浮かべたつもりで、相手に向かって速度を緩めず歩き続けた。そして、やがて僕たちは、横断歩道のちょうど真ん中のあたりで正対するくらいの距離に近づいた。近くに来て、あらためて相手の顔を見たら、驚いたことにその頬は濡れており、目からは涙が後から後からぽろぽろとこぼれていた。そしてその相手はその場に立ち尽くして「坂中さん、ほんとうにすみませんでした、ほんとうにすみませんでした」と頭を下げて何度も詫びるのだった。僕は一瞬困惑したが、しかしもう、その相手の震える肩を見ただけで、今までの事がすべて、何事も無かったかのような、あるいは何もかもが台風みたいにすさまじい勢いで通り過ぎてしまったかのようなものに思えてしまって、後には何もなく、二人だけが残されたような錯覚にさえ陥って、とにかく相手の二の腕のあたりに手をあてて「いいんですよ、そんな!とんでもない!いいんですよ!」と繰り返すほかなかった。周囲の人々が訝しげな表情で、そんな僕たちを横目に見ながら通り過ぎていく。相手はなおも、深く頭を下げたまま涙に暮れており、打ちひしがれてその場に立ち尽くしているだけだった。そのとき僕は突然、何か不思議な強い衝動に駆られて、思わず、誰に語るでもなく、周囲に聞えるくらいの大声でこう叫んだのだ。「皆さん!この人はいま、世界の虐げられた、弱い、貧しい人々すべてのために涙を流しています。自分の想像力の外側の、この世界にあふれている悲しい出来事すべてのために、心から悲しんで泣いているんです!この人は、皆さん、あなたがた一人ひとりのためにこそ、心を痛め、涙を流しているんですよ!!」…周囲の人々は、異物を見る目つきでこちらを見ながら、関わりを持たぬようやや距離を置きつつ、無言で、何事も起きていないかのような態度を装って、僕らの両脇を通り過ぎていった。横断歩道の信号はもう赤に変わろうとしていた。僕は「さあ、歩道に戻りましょう」と言って、相手を促して一緒に来た方向へ引き返した。松坂屋の前に居る救世軍のひとりが、ふたたび賛美歌をうたいはじめた。


いつくしみ深き 友なるイエス
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエス
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエス
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。