スケッチ


昨日よりは寒い一日だったがおおむね快適。冷気が肌に心地よい。昨日は異常な暖かさで、いきなり春というか梅雨時みたいな匂いがあたりにたち込めていた事に驚いたが…。


一日のうちで何度か、これは書き留めておきたいと思うような出来事なり考えなりというのがあるが、でもこれまで一度として、書こうと思った事をそのように書けたためしがない。結局、すべての出来事は、そのまま平然と通り過ぎていく。書く事は書く事として、出来事とはまったく別の地平にあって、それはそれでやはり平然と、書かれたもの自体として悠々と過ぎ去っていく。


感じたことや考えたことや色々なことがあっても、それらと僕とのそのときの関係が一旦終わってしまうと、後になってそれを思い出してあたかも今それを感じているかのように書くなどという事が、途方も無く無駄で空々しい事のようにも思えてしまう。そんな事をするくらいだったら、むしろ今ここで感じている些細な事を書いた方がなんぼかマシだとさえ思う。たとえ今ここで感じていることが恐ろしく凡庸で取るに足りない事だったとしてもだ。そういう質の問題ではなく、今ここで書く事以外の書く行為がみんな欺瞞的な感じに思えて、それが耐え難いと思われるような気分がある、事もある。


絵を描くとき、今、私は絵を描いています、という気分をなるべく頭から抜いて描いた方がいい、みたいな話があったとする。そういう話の理由というのはたぶん、いま絵を描いているという事実がこの私を強く縛ってしまい、目の前の絵を描く行為をスポイルし兼ねないからだろうと思われる。たとえば昔の画家がイーゼルとスケッチブックを持って野外へスケッチに行ったときの、景色を肉眼で見ていながら同時に自分の制作画面に手を加える事もできてしまうものすごい新鮮さというのは、何となく想像ができるような気がする訳です。それは、これは書き留めておきたいと思うような出来事をそのままリアルタイムで書き留められる、という事なのか?と云ったら、それは少し違うような気もする。書く(描く)のは、どうしたって、その行為の枠内でしか行為しえない。


ただ、なるべく「これは書き留めたい」と思ったときの感じを「どうせ無理だから」とあきらめず、できる限り執拗に、白けたり高を括って甘く見積もったりせずに、なるべく愚直にやっていかないといけないと思う。そういうところは、愚直に単純にやるべきだとは思う。そうじゃないと長い目でみたときに自分で自分を見失う事にもなるだろう。


そういえばさっき、ブラタモリの録画を見ていた。神田特集。明治時代はニコライ堂の上から東京湾が見えたのだそうだ。。すごい。御茶ノ水から東京湾が…。