何もしてません


今日はものすごく何もしてない。でも部屋でだらだらしてただけだが、しいて言えば、音楽を聴きました。色々と適当に聴き続けた。あとミキサーを買おうかと思って色々と調べたりしてた。3ch以上付いててアイソレータがあればいいなあと思った。フロントパネルが写ってるでかい写真画像をしげしげと眺めて、各ツマミやスイッチの配列を凝視して、公開されているマニュアルを真剣に読んで、ひと通りの機能をざっくりと把握して、やっぱいらないやとか思ったりした。それはそれで良かった。そして夜も更けてきてから、うわー今日はほんとうに何もしなかったなーと思うのだが、とりあえず休みの一日であれば、そういうふうになるべく何もしないような一日というのも良いではないかと思うのだが、まあその意味ではこのだらだらした一日も、一日の過ごし方としてはかなりいい感じの仕上がりだと、云おうと思えば云える。でも、やはりせっかくの休みの自由な時間なのだから、それを有効に利用して、何か多少のことをやった方が、それで何かが後に残る、とも云えるかもしれない。時間を無為に使うか有為に使うかで人生の意義は大いにかわってくるという言葉はたしかに正鵠を得ておりそう簡単には馬鹿にできない。でも、何かを後に残すために一日を使わないと、みたいな考え方自体が面白くないというのも確固たる事実だ。そういう、何かのために何かを犠牲にする、という考え方から、ちょっと降りたいのだ。誰のためにも頑張りたくない、というのは、自分のためにも頑張りたくないという事だ。そういう考え方に存在の余地はあるか?ガソリンを燃やして車が走る、というのと同じように、時間を燃やして、あるいは何かを犠牲にして、何かを生み出す、みたいな事しか、人間には許されていないのだろうか?時間を消費せずに、何も犠牲にせずに、何かを生み出す事はできないのだろうか?カネを使って何かを生み出すというのは、時間の消費責任を他人に譲ってるだけだから駄目だ。そうではなくてもっと、自分自身の生活内において、何も犠牲にする事無く、何も燃料として捧げる事無く、何かを生み出す事はできないものだろうか?


などという戯言を書き連ねてても仕方がないのだが、とりあえずその意味では今日は、一日何もしないことで、一日の、午前中から午後にかけての時間の流れや日の翳りの様相を室内に居ながらある種の気配としてたっぷりと味わえたとも云える。それは結構、いいことだと思う。何しろなんにもしてないからね。今日の僕はいつにも増してまったく慎ましい人間だった。明日は外出する予定なので、ことによっては皆様にご迷惑をおかけする事もあるかと存じますがどうかご了承頂けますよう何卒宜しくお願い申し上げます。