懐かしい写真


しかし、1〜2ヶ月前とかの写真でも、充分に懐かしい感じがする。なぜそう思うのかというと、たぶんその写真に撮られた風景がもうこの世に存在しないからである。それは会社が移転する前の旧オフィスで撮った、去年まで僕が座っていたデスクの写真である。年末に一人で出社して仕事して、夜の7時かそれくらいになって、ふと思い立って携帯で自分の席を写真に撮った。少しして新オフィスの準備が完了したと同時にその写真の風景は解体業者によって片付られて跡形もなくなった。


その写真の生々しさは、デスク上にあるコーヒーの紙コップとか、メモ用紙とペンの無造作な置かれ方とか、キーボードの置かれた角度や、モニタに表示されているいくつかのアプリケーションたちから発されるもので、それを見ながら僕は、今すぐにでもそこにある様々なモノやモニタの表示内容から「次の行為」を読みとって行動しようという気持ちになる事ができるし、いやそれを読み取るためだけにこの写真があるようにさえ思えてしまう。でも驚くべきことにこの写真に写っている風景は、本当にもうこの世には存在しないのである。これはもう二度と再生不可能な写真であると云っても過言ではない。このようなマウスの位置や電話機の脇においてある「おーいお茶」のペットボトルとの十数センチくらいの間隔が醸し出している「この感じ」は、もうこの世に二度とあらわれることはないだろう。


もちろん今も、新しいオフィスの、僕が着席しているデスクに相変わらず「おーいお茶」のペットボトルやコーヒーの紙コップは置かれるし、モニタにも様々なタスクが表示されていて、そういう毎日が今までもこれからも何年でも何十万回でも繰り返されるので、それは何も変わってないのだが、しかし、あるスナップショットがもう二度と再生不可能である事もまた事実であり、その事実の動かしがたさというのにはやはりあらためて驚かされてしまう。


そして僕は今後も、この旧オフィスの写真を観るたびに、前述のような事を思うのだろうか。何度でも何度でも、思うという事の、飽く事なきリフレインを繰り返すのか。ほんの数ヶ月前のまだ生々しい記憶と、もうこの世に存在しない事実との落差が丸ごと内包されたパッケージを、まるでレコード盤のように、何度でも何度でも、事あるごとに再生装置に載せて、それをまるではじめての出来事であるかのような驚きとともに、果てしなくそれを聴くのか???