読書


本を読んでるときの落ち着きのなさ。本を読んでる時間の半分以上はその本とまったく無関係な別のことを考えていて、数行読んでは途中で立ち上がって、部屋をうろうろとしたり、CDの棚を見たり、本のページの端に大きなクリップを挟んで本を開きっぱなしの状態にさせて手を離しても読めるようにしたり、全体のバランスを壊さないように小刻みに身体の位置を変えたり、そのまま、またしばらく没入して、数行読んで、そのあとまた、おもむろに立ち上がって、すたすたと歩いて冷蔵庫の前まで行って、ドアを開けて中を見て、何も取らずにすぐ戻ってきて、今度はまた、しばらく無関係な想像に頭がいっぱいになって部屋中をウロウロして、で、またしばらく気を取り直してはじめからやり直しの気分で数頁読み進めたあと、ふたたび冷蔵庫まで行ってさっき見た事を思い出してそのまま別の部屋に行って電器をつけてあたりを見回してまた電器を消してまた自室に戻って、しばらく部屋を行ったり来たりしてCDの棚を長いこと見つめて、やがてまた、何事もなかったかのように本の前に戻ってきて続きを読む。


人生の理想を追求すべき、生きる意義を探すべき、その自由を行使すべき、というのはイデオロギーで、それを言い出すと「私」がいちばん大切なことになってしまい、たしかにまあ、それでも構わないのだが、でも問題としては、さまざまな、多種多様な、ゆたかな出来事を、おおよそまず私をもってしか取捨しなくなるのがまずい。いや、取捨するのが私でしかない事自体はまずくない、というか、それ以外の方法などないし、そこからしかはじまらないし、また全然違うイデオロギーをふりかざして「これで世界を正しく取捨できる」とか言い張るよりはまだましなのかもそれないが、でも私をもってしか取捨してないのだ、という事の自覚というかそのことの頼りなさというか不安というか、そういうものを抱え続けるしんどさを放棄してしまうのがまずい。要するに「私」がいちばん大切だと「私」が「私」に許可を与えればすべて何でも良くなってしまうので、そのことに開き直るのはまずい。それだと何がまずいのか?「私」が「私」に許可を与えて何が悪い?私が私の中でまずくないことはまずくないではないか?という言葉に再反論できる根拠自体もないというところもまずい。要するにその「私」と私との接点が切れていることが前提となっているのがまずい。実際はそうじゃない可能性もまだあるからだ。


戦争していた昔は、若い人は「いかに死ぬべきか」を考えたのだそうだ。これも現代と同じ「いかに生きるべきか」「ほんとうの自分は…」的な考えと同じようなイデオロギーにおかされたのだ、という説を読んで、なるほどーと思った。それよりももっとほんとうの大昔は、若い人も「そこで死ね」と命令されたら「はい」と言ってほんとうにそこで死んだのだそうだ。そこに生きる理由も死ぬ理由も私の意味も何もない。ではその命令とは何か?支配とか服従の条件とは?という疑問もわくがそれはおくとして、なにしろイデオロギー抜きでものごとと接することができるのがいちばん良い事なのはあたりまえのことだ。うわぁ花がきれいだ、木が高い、空がものすごくブルーだ、気温が25度を超えた!という感じのまま午後になって「そこで死ね」と命令されたら「はい」みたいな…そんな事を考えていて…あぁ馬鹿馬鹿しい、そういう妄想は矮小でつまらない。読書しているとそういう矮小さから脱出できるのが良い。経験は「人生」と相反する。いかに生きるべきか、とか、いかに死ぬべきか、とかいう問題が基本的にワナで、そんなのは、ほんとうは考えるに値しないような、実にしょうもないモノなのだ。とはいえ、じゃあ何が考えるに値するのか?というと、それもわからない。いつまでもたっても「だから、それでいいんだ」ということに安住することを決して許してくれないのだ。だから話は堂々巡りになるのだが、「人生」的なもののイデオロギー的な呪縛から開放されないと、「これでよい」「安心」「安住」の信仰からも解脱できない。…まあ言うは易しだが。というか、そこまで気合入れなくてもいいよ、別に出家して坊主になりたい訳でもあるまいし…とも思うが。むかし、内田春菊が新聞の悩み相談コーナーをやっていて、恋愛相談に対して「恋愛っていうのはね、相手に対して手を抜きはじめた時点でおしまいなのよ」と書いていた。それはまさに、私が何かに触れるとき、常に意識しなければならないことなのだ。もちろん意識さえすれば「恋愛がうまくいく」わけではない。そんなこと云うまでもない。恋愛がうまくいくかどうかなんて、自分がどうこうできるようなもののわけがない。たぶん逆に、意識とかしなで「自然体」とかの方がよっぽど上手くいくのかもしれないが。でも僕は恋愛というものを決して政治の延長だとは思ってないんです!!