赤いトタン


昨日散歩していたときに見かけた、ずいぶんくたびれた感じの古くてぼろい家の、赤いペンキで塗られたトタン板の壁の、ペンキがところどころ剥げかかってちりばめたように地の色が剥き出しになっていて、でもまだかろうじて全体的には赤の面という感じで、くすんだ調子の色面として、こちらに向かってその形態をかたちづくっていて、その隣の家も、やはりずいぶん古くて生活臭もまったく感じられず堆積した時間によって朽ちかかった雰囲気で、しかしその表面には鮮やかな緑色のツタがその壁の三分の一ほどを覆って生い茂っていて、薄暗い曇りの空のどんよりとした雰囲気の中で、そのような朽ち果てた情景のそれぞれのかすかに鮮やかな赤と緑の色と形の現れかたを横目で見て、ああ、これが現実なのだから、これはもう人間が何か、自分自身で工夫して何かしらを作るにしても、たとえばのはなしが、少なくとも今、僕がここで見たこの感じの、このなんとも言いようがないこの、何も無さとでも言うよりほかないようなこの感じの中から、そこから確実に掬い上げてきたほんの少しだけの要素としてしか、あらわしては駄目だろうなと思った。なにしろ、やり過ぎは禁物だし、実際に見てもいないのに、自分の手で掬ってもいないのに、あたかもそれを知っているかのような態度をとっても仕方がない。そういうしぐさが有効な場合もこの世にはたくさんあるが、こと自分で自分自身の工夫によって何かを作ろうとする場合なら、ハッタリはあまり意味がない。まあ、その気になって作るのは大事だし、ある程度阿呆みたいになってその気にならなければ作れないというのも本当のことだし、なんにせよ自分で自分を運用対処させていく事が大事なのだが、でも少なくとも今、自分がかなりなことをやっていると思ったりしないようにしなければ間違う。なぜなら、現実は、あの薄暗い曇りの空のどんよりとした雰囲気の中の、あのとてつもなく恐ろしい、朽ちた赤いトタン板なのだから。あれが、この世界のほんの0.00001%としてある、という事の絶望感というものを忘れて、あるいは見なかったことにして、自分がかなりなことをやっていると思うのは滑稽なことだし、それでは済まないのだ。なんだかんだ言ってもいつかあとで、結局はそういうものに自分がきっちりと復讐されることになる。遥か彼方の遠い過去に置き去りにしてきたなんて思ってられるのはほんのひと時に過ぎない。何年かたてば、きっと復讐のように、悪夢のような現実として、また目の前にありありと、あのとてつもなく恐ろしい恐ろしい、朽ちた赤いトタン板が、目に飛び込んでくるはずなのだ。だからいずれ、そこに戻ってくるはずだ。いや、いつかそこまで自分の足で行かなければならないという事か。仮に行っても、あんなトタン板など単なる鉄屑のゴミでしかないことはわかっているのだが。