メルテッディン・インステップキック


テレビでサッカーがやっていて、画面の人々が皆サッカーチームの選手である。試合はもうすでに始まっていて、前半5分が経過したので、ほとんどの選手がピッチに出てサッカーをしている。選手は全員サッカーしかやる事がないが、しかしそれにしてもみなが一丸となって、ボールを追いかける選手もいれば、ベンチに座っている選手もいる。選手たちはサッカーをやる気に満ち満ちている。ワールドカップで、世界中が注目する中、ヨハネスブルグにやって来て、さあこれからサッカーをやるぞ!と思っているはずだ。少なくともサッカーだけはやる事が確実だ。とりあえずこのピッチで、相手との90分間を、全力でサッカーに使うのだ。そんなサッカー選手たちによって構成されたチームというのはほぼ完全に同一の意志をもっており、ほとんど組織的ですらある。


おそらく全員がサッカーに本気で取り組んでいて、サッカーに夢中なのだ。もう俺には、サッカーしかないと思っている。そういう気持ちをもった者同士が、集まってきたのだ。それぞれの個性を尊重しながらも、サッカーのためにひとつになる。その意味ではやはり、まずサッカーあってこそのサッカー選手なのだ。


だいたいサッカーをしている途中で、ふいにボールが顔面に当たったり、他の選手の腕や足が強く顔面などに当たったりする事の苦痛を、充分に受け入れる覚悟ができているのだろうか。しかしそれはおそらく、そうなのだろうと思われる。何があってもかまわないと思っているのだ。不安と恐怖の克服、いやおそらく、恐怖を別のちからによって抑え付けているのだ。苦痛に対する恐怖さえ、サッカーの前には解消されてしまう。サッカーは苦痛にさえ打ち勝つ。


サッカーの選手の振る舞いで、ことさら観る者をおどろかせるのは、やはりその身体を、自分自身の意志でコントロールして、曰く言い難い形状に、自らメタモルフォーゼさせる、その瞬間にほかならないだろう。このとき、サッカーを観る者はここぞとばかりに動揺し、激しく身体を揺さぶって驚きの声を上げるが、その声は空間全体を破裂させてしまいそうなほど強烈に鳴り響くので、その強烈さでさらに、またサッカーの選手の身体が次々と、奇怪なほど妙な具合に変形して、道端のくぼみのところに次々とこぼれおちて、そこら一帯が雪のように白く染まってしまうのだ。想定をはるかに超えた深いレベルで次々とわき起こるメタモルフォーゼ。そしてそれがまた、次なる哄笑を誘い、その場の全員ではげしくスパイラルアップしていくのだ。しかし選手の身体が、その形状を変容させることは、サッカーにおける大きな謎である。しかも、それが誰にとっても、謎と認識されていないところも含めて。


サッカーの個人的な思い出をひとつあげるとするなら、はばかりながら自分も小学生まではサッカー少年だったのだ。中学くらいまではまあまあ、サッカーのプレイが上手だったし、クラスでも自分はサッカーのプロになるのだと申しており親兄弟や先生を困らせていたのだが、高校生になったらまったく全然ダメで、夢をあきらめた。やはり十代の男子の場合、中学生までと高校生あたりからで、同じスポーツをやってたとしても、この自分が自らまったく別の生き物にメタモルフォーゼしてしまうため、同じような調子でのサッカーのプレイは不可能となる。小学生のサッカーと高校生のサッカーは、もちろん同じようなルールに則って行われているが、しかしその内実というか、現実に起こる出来事としては、おそらくほとんど共通点はないとさえいえるかもしれない。それは人間の身体が、十代という成長期特有の変容を遂げるからだ。この変容度合いは、言葉では言い表せないくらいの多大なものだ。言うなれば、メタモルフォーゼ。そのような言葉でしか言い表せないほどのものなのだ。おそらくモノの感じ方や考え方も、この私が収まっている身体のメタモルフォーゼに、大きく影響されるに違いない。そしてその結果、僕はサッカーを手放す事になったのだ。


それからというもの、ときどきサッカーを観ていると、自分が一体、何を観ているのかが、徐々に分からなくなってきてしまい、その途端ふいに、猛烈な恐怖におそわれ、いてもたってもいられなくなるくらいの勢いで、身体が震え出して、どうしようもなくなってしまう事がある。そしたらもう、落ち着いてサッカーを観ている事なんかできない。何がサッカーなのか、自分というものの、その根拠が、ぜんぜんわからなくなってしまうのだ。それは、叫びだしたくなるほどの恐怖である。で、そういうときは、自分はとりあえず細かい理屈抜きで、まずサッカーのボールを観ることにしている。サッカーのことをひとまずすっかり、頭から抜いてしまって、単なるボールの移動に神経を集中する。私は私の視線を、サッカーのボールだけを追いかける事に使い、そのボールの行方を、いつまでも見つめ続けるのだ。そうすると、なぜかサッカーというものの全体に、これまでまったく気づいていなかったような、新しい地平が開けて、明るさが戻ってきて、雲間から日差しが降り注いで、どこかから涼しい一陣の風さえ吹いてきて、サッカーと呼ばれるすべての出来事全体が、そこでまるごとひっくりかえって、全部が入れ替わってしまうかのような、空恐ろしくなるとてつもない大発見をしたかのような思いに、駆られる事さえあるのだ。そうなったときの私はもう、天にものぼるような気持ちで、あとはもう夢中になってひたすら全身の五感を研ぎ澄ませて、ボールの行方を追いかけ続けて、ただひたすら、私の目の前にあるサッカーの行方を、必死になって追いかけ続けるだけだ。