グーロフ・プレイ・ギター


主人公のグーロフがアンナ・セルゲーエヴナと出会ったことは、彼の人生にとってどれだけ特別な事だったのか?というか、今までの人生そのものが根本からひっくり返るよなものすごい出会いだったのか、そのくらいの「真実の愛」に遂に目覚めたのか?…もしくは、何だかんだ言っても、要するにグーロフは今までと何も変わってなくて、要するにこの男は新しい女ができるたびに毎度毎度この手の大騒ぎをする男ということで、別にグーロフの人生それ自体を揺るがすようなことではなくて、むしろグーロフの人生にもうひとつ新たな伝説(笑)が書き加えられただけの事で、アンナとの激しい恋路もやがては終息するという、この手の男の、いつものパターンなのか。


・・・チェーホフ「犬をつれた奥さん」を読む限り、この体験がグーロフにとってどの程度強烈な体験なのか、それについてはよくわからない。それを決定つける如何なる根拠も作品の中には無い。いやそれは小説を斜めから読みすぎだというのはよく分かっているのだけど、でもそれを気にしない訳にもいかないだろう。


とにかくグーロフという人物は、所謂「女たらし」である事は間違いなく、では「女たらし」という種族とはどういう者か?というと、要するに、毎度飽く事無く女性との関係を新たで新鮮な何かと読み込み、それを人生におけるもっとも貴重で芳醇な糧とするような性質をもつ男性のことなのだろうと思われる。


そうなの?「女たらし」というのはむしろ、女を獲得すべき目標と割り切って、それへ向けて最大限効率的に行動するような攻略マシーンの事なのではないの?という考えかたもあるだろうが、僕はその考えかたに与しない。そのような「女たらし」は「女」が目的なのではなく「効率」あるいは「システム」あるいはそのようなものとプラグインしている自分を確認することが目的なのだろうから。であるならばそれは、目的こそ違えど、結局は優秀なビジネスマンの仕事ぶりと変わりない成果至上のパフォーマティヴな業務行為なのだろうから。


真の「女たらし」とは、目の前の相手を見て、目の前で起こっているその事象を、自分なりに抽象化して分類してまとめてラベルを貼って理解しやすく分かりやすく管理しようというような事は決してしない。そのような「編集感覚」からもっとも遠い、それこそ酸いも甘いも含めて、今、目の前のこの相手から受ける「この」感じを、不器用に無様に、何の用意もないまま、いまここで最大限に感受しようと常に働くような意識しか持たない者のことであって、それはある意味きわめて非効率的で学習能力もない経済効果指数がほぼゼロの行為者の仕業なのだ。


たとえば、ある男(女)が失恋したときに、ひとは「女(男)は他にいくらでもいるじゃないか」と慰める。こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、この女(男)に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この女(男)は、けっして女(男)という一般概念(集合)には属さない。したがって、こういう慰め方をするものは、"恋愛"を知らないといわれるだろう。しかし、知っていたとしても、なおこのように慰めるほかないのかもしれない。失恋の傷から癒えることは、結局この女(男)を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(単独性と特殊性 柄谷行人)


しかし結局は誰でもこのわたしをたんに類(一般性)のなかの個とみなしてほしいと思っているのが世間というもので、それが誰はばかる事無く、何の疑問も差し挟まれる事無く整然と共有される世界においては「失恋」は存在しないのだ。


唐突に「ノイズ・ミュージック」というものの必要性を痛感する思いがする。どこにでもいる女一般として、この目の前の女を見ても良い。それも上手いやりかたのひとつだろうが、しかし、今、目の前のこの相手を、「一般」などというものへ、ぜったいに明け渡さないという意志こそが、ノイズを生むのだ。