イォーヌィチ


岩波のチェーホフ「可愛い女/犬を連れた奥さん」(神西清 訳)も読んで新潮文庫と読み比べている。しかし「犬を連れた奥さん」というお話はなんとも、読めば読むほど馬鹿馬鹿しいという気持ちにもなるが、でも、その馬鹿馬鹿しさこそが「犬を連れた奥さん」なのだと思う。


主人公のグーロフは40歳の直前である自分がもう既に男性的な魅力に欠けた只の中年男でしかないという事をよくわかっていて、というか、モスクワでアンナと逢引してるときに鏡に写った自分を見てそれをまざまざと見てその衰えを感じていて、それでもなんとかこの相手と幸福になりたくて、そのための手段を必死に考えるのである。これはもう、ある意味、人生の侘しさの究極というか、もう完全に終わっていて、将棋で言えば完全に詰んでいるのだが、その状況下でもまだ人間は「明日になればきっと何もかも上手く行く」などと思ってしまうようなもので、それはそういうものだと思って読むのだ。


「犬を連れた奥さん」と「イォーヌィチ」はある意味響きあっているような感じで、「イォーヌィチ」を読むと「犬を連れた奥さん」の主人公のグーロフも、どうせ何年かしたら相手に完全に愛想をつかし「やれやれ、当時はまったくご苦労なことだったわ!あのときオレ完全に頭ワいてたわ!狂ってたわ。やー馬鹿馬鹿しい」とか言いそうな感じがしてしまい、何とも言えぬ気分でやれやれはーっとため息をつきたくなるような気分になれる。でもほんとうに、恋愛というのは結局のところ、そのとき自分が揃った条件の中でたまたま陥る心身の異常状態みたいなもので、恋愛感情というのは結局のところ、他者としての相手を愛している。いうよりは、自分と自分との内面的なモノローグの中で、いつしか育まれていくようなものなのだと思われる。その意味で、恋愛というのは厳密にいうところのコミュニケーション、ではないのだろうと思う。いやそれもコミュニケーションなのだが、それのみではない。それはむしろ、作品を作るような行為に近いのかもしれない。このわたしの想像力の中の最高の場所に向けて、それを差し出す。では恋愛は?恋愛は両者の完全なモノローグ同士のぶつかり合いだろう。それはおそらくコミュニケーションの戦争状態であるはずだ。「犬を連れた奥さん」最後のシーンでの主人公のグーロフはまるで、いつかきっと戦争がなくなりこの世に平和が訪れるだろう。この日ざしを見ていたら、いくらなんでもそうとしか思えない!と思っているに違いない。工場や労働やカネに阻害されない最強の天国が出来るはずだ、いやそれが今目の前にありありと見えるかのようだ、と言うのだ。でもアンナ・セルゲーエヴナはあいかわらず涙に暮れているのだろうが。