スーラ


昨日、乃木坂で開催中のオルセー美術館展をもう一度見ておこう(三回目)と思って行ったが、入場待ちの行列の長さを見て断念した。その何日か前に初台オペラシティ「ベルギーの新印象派の画家たち」と、世田谷美術館の「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール展」を観ていて、どちらも渋くて良い展覧会で、そのままの勢いでもう一度スーラを再見できれば完璧だったのに。


去年、葛飾水元公園にはじめて行ったとき、僕ははじめて、これはまさしく「公園」だ!と思った。公園が目の前に露呈していた。僕は今まで上野公園にも日比谷公園にも感じた事のない何かを、水元公園ではじめて感じた。最初は、水元公園を「マネだ!」と思ったのである。しかしそうじゃなかった。「マネ展」を観て、そうじゃないと思った。いや、マネでもあるだろうが、何よりも、スーラなのだ。スーラとしか云いようがないのだ。水元公園は。


ちょっと全然上手くまとまってないが、あるいはあまりにも分かりやすい話に思われてしまうかもしれないが「グランド・ジャット島の日曜日の午後」なのである。水元公園はスーラのあの作品を模倣しているかのような公園なのである。あるいは「アニエールの水浴」なのである。空間も人々も木々も風も空気も空も、すべてが無意識のうちに絵画作品を模倣するのである。僕はおそらくこれからも水元公園に行くたびに、その事に何度でも驚くのだと思う。


東京ミッドタウンのビルのふもとに芝生が植えてあり、人々が思い思いにその場に坐ってビールを飲んだりしている。それを見て、ここにもまたスーラが…と思う。スーラが明るみに出したものとは何か。うまく言えないけど、おそらくそれは、公園や芝生の植わった領域とか、そのような、既に我々があたりまえだと思っている、ある区域の中に営みをはぐくんでいる我々自身について、それをそのように無意識に規定させている何か、そこに坐ることができて、それがそのまま、何かしらの意味とつながりうる小さな行為としてはたらくのだという事。それを実現可能にさせた、ある力の発見のことではないかと思う。


スーラ以前に公園がなかったとか、そういう話ではない。しかしスーラがそのように描いたことで、はじめて人々は、公園であのようにうなだれてただ黙って水面を見つめ続けることを始めたのではないか?そのような事が、はじめて可能になったのではないか?というような想像が働いてしまう。もちろんそのことが人間にとって「良かったのか悪かったのか」はわからないし、事の良し悪しなどはまた別の話であるが、少なくとも、あそこにそのように描かれたことではじめて「はじめてそれがそのようになった」かのような、取り返しのつかなさとでも言ったようなものとしての感じを受けるのだ。