紅葉


毎年の事ながら、紅葉についてどう考えるのか。何も紅葉という言葉に縛られたままで、この時期特有のあの葉の色づきについて考えなければならない義理はまったく無くて、その意味で紅葉などどうでも良いのだが、でも事実として紅葉しているのだ。それが現実なので目を開けてよく見てください。その話だけしましょう。今日だって帰ってくるときには、二日ほど目を離したすきにもう、桜の木やクスノキたちが、とめどもなく紅葉しているのだ。そのことをどうするのか。そこだけ議題として、手短に終わらせましょう。


いやある一時期に葉が色づくという前知識などまったく意味が無くて、世間一般の四季折々のお話の一環としての秋の紅葉云々をもっともらしく書ければそれもそれで良いのだが、そんなことはとうから皆わかっていて、紅葉などという言葉に意味があるなどといまさら誰も思ってはいない。それを紅葉に皆、何を思うのか。それこそ人それぞれで、追い求めるものが紅葉なのか木々なのか空なのか賑わいなのか暮れの長く伸びる影なのか、皆がはっきりしないままひとまず木の下に集うのだ。で、いまここは軽井沢です。今回もやってきた。ワインの空瓶を並べたまま、凍て付く外の風景を見つめている。完全にカビまみれとなってベランダに放置された干し柿を猿が奪いにこないものか、その瞬間を見ることができたらさぞ楽しかろうと思っている。夜もふける。気温はいま五度。もしかすると四度。さっき見に行った、有島武郎の自殺した別荘。山の山荘。別荘族の高級車が並ぶ駐車場。浅間山荘は浅間山にあるのだっけ?明治・大正・昭和の始めあたりまでの、高原の避暑地を拠点としていた作家たちの、日本近代初期における知性のエリートだったろう彼らが過ごした、秋の夜の一夜の時間。そして彼らはおそらくこのあたりの、粗末なあの別荘で、あの茶室で、山荘で、ひたすらとり付かれたように、何がしかの目的に向かった。ランプの炎をじっと見つめた。そしてふたたび浮かび上がる火照った熱情にほだされて、飽く事無くその足掻きに明け暮れたことだろう。山荘というものの寒さを僕は、このたびはじめて実感した。山荘。そこは寒かった。これほど寒いものかと思った。日本近代初期の知的エリートの、若者たちの夢。キリスト者たちの、夢。それを思う。山の寒さ。浅間山のなまめかしさ。浅間山は、一度は見るべき山だ。山肌。肌という言葉のあれほどの似つかわしさ。すべすべとしたような、たまらないような、あの滑らかさ。


秋の紅葉の話だった。西日の差す時間を、僕は自動車に乗って、自動車でひたすら、目的地まで移動していたのだった。道は右へ左へ激しくうねり、乗り物酔いの予感にたえずせめられながらも、しかし天上から降り注ぐ太陽の光に鬱蒼とした木々の葉が照らされていて、本来は薄暗いはずの鬱蒼とした森の木々の茂みが、しかし色づいた紅葉の黄色がまるで不良中学生が出し抜けに染めてきた金髪の頭髪のごとく、唐突かつ誇らしげに光り輝き、上空からの光をいっぱいに含んで、黄色それ自体で発光し下界をぼんやりとした明るさに染め抜いているのだった。我々の車が走る路面がまるでステンドグラスの光を落とすかのように七色に色づいていた。紅葉。それは鬱蒼とした木々に覆われた暗い奥まった空間に、出し抜けの黄色やオレンジ色が降りそそいであたり一帯の空気をいっぺんに模様替えしてしまうような出来事なのだ。紅葉それは、ある朝目覚めたら自分の家の天井裏がいきなり黄色とオレンジ色に塗り込められているような事態のことだ。そのはげしい色彩を透けるようにして、太陽の光が降り注ぐのだ。その激しい色彩が、僕が今立っているこの地面にも太陽の光は届くものなのだという事実を、はじめて知らしめてくれるのだ。紅葉。それは壁紙の一新であり、どこまでも続く塀のペンキ塗りが一夜にして見事に終わってしまっていることの驚きであり、そうこうしているうちにも今そこに、目の前で枝に囲まれた一角の銀杏の葉の集いがひとそろいで夏の終りの雲のようにほのかに金色の発光物として浮かび上がっているような事態のことなのだ。