Easy Living


与えられた時間のぶんだけ、何かができるわけでもないし、限られた時間で充分な成果が出ないときまった訳でもないし、なるほど時間というのは、換算できるような単位で計っても、あまり意味が無いものなのだろうとは思う。短かろうが長かろうが、何かができたりできなかったりする事に、時間はあまり関係がないのだろう。その意味で僕はいまのところ、自らに与えられた時間の長さ短さとは別に、どうにも何もできなくなったような思いの中にいるがでもそれはそれで、そうわるいことでもないとも思っている。いわば、道にまよって、適当にふらふらしながら、そういう境遇の、そういう時間の中にいまいるということで、それでとりあえずいま、何もできないと思っているということは、すなわち現時点で冷静にいまに位置づいてるという事だとそう思いたい。そしてぼくは、むかしからよく、やかましい音楽を聴くし、騒がしい音楽を聴くのが好きで、なるべくいつでもどこでもでかい音でスピーカーを震わせたいのであるが、しかし常に思っていることとしては、いま聴いているこの楽曲の、このやかましさが、一体どこから来ているのか?ということで、それを常に気にしている。なるべく何でも聴くが、しかし常に、おまえは誰だ?何者だよと思っている。それで、もしやこの騒々しさが、僕にって誰とも知れぬお前の、お前にとっての何かへの腹いせであったり、なにかへの憂さ晴らしであったり、何かへの抵抗であったりするのなら、ぼくはもう悪いがその手の音楽をもう、こんりんざい聴かないのだとそう思っている。そういうなにかの代替として打ち鳴らされる騒々しさを僕は拒否させていただく。音楽の作り手がなにを考えていても、それはかまわないのだ。そんなことは僕に関係ないし、僕に届かぬことだ。そかし問題は、そのやかましさそれ自体がどこから生まれているのか。それだけだ。その一点において、ものをしんらいするのかしないのかをきめる。いいかだから、僕が唐突に、そこに来たのだ。だからそこで、出会いと別れだよ。君はいいからそこでそのまま、席で飲んでてかまわないよ。そこはそれで、楽に行こうよ。そういうことだ。だからでもかりにそれで、これは信頼にたりないと思ったとしても、それでも世の中には、もっと劣悪な音楽もやまほどあるので、それよりはマシだと思う部分も大いにある。ほんとに、おまえのそのいかりや態度も、もっともだよと思うときも、ないではない。共感すらするよ。でもそれでも、なにもないがらんどうの、埃の舞う密室で反響するその音にしか、僕もすがるものがないのだ。だからおねがいたのむと思っていつも聴いてるのだ。いきなりその場で、唐突に始まってくれよ、出し抜けの轟音で、ガラス食器すべてを床にたたきつける勢いで、闇を引き裂いて、その場ではじまっておくれよと、それだけを祈っているのだ。それは目的も行方もないいのりだ。下向き視線の祈りだよ。それにしてもベンチにじっと座リ続けていると、驚くほど尻が冷たく冷えてしまうものだな。もう十一月もなかばで、それもあたりまえだな。でもまた来るからな。いつもそのへんを、うろうろしてるからな。これから冬だな。じっと並んでドアの向こうに入るのを待つのも大変な季節になったな。