とくにない


書きたいと思うときの気持ちというのは、一体何か?そう思うことは多々あるが。あれは一体なんだろうか。で、いまこうしてキーボードを叩いていて、今は正直まったく書きたいと思ってない。書いてるときに、書きたいと思ってないことがほとんどだ。読みたいと思うときもあれば読みたくないと思うときもある。今たまたま「夜みたい」と変換されたが「夜みたい」の方が何倍もマシだとさえ思う事も多々ある。そういう自分の「気分」の中にある空間の隔たりを飛び越えて、書いたりもするし、読んだりも見たりもする。自分の「気分」の中を自分でちゃんと考えるか、あるいは一辺倒に何かに向き合わせるか、たとえば受験勉強を一生懸命やった人は、自分の「気分」を殺すのが得意だろう。自分をすぐに受け入れ可能なモードに変えられる。ホットプラグな人も世の中には多い。とくに若い人。ほんとうに素晴らしい。でもそれは自分というシステムの操舵技術に過ぎないので、自分をkillしてしまう可能性がほぼない訳だから、それはそれでさほどの問題ではない。


しかし問題はやはり記憶で、記憶に保存していて、それを今、呼び出したいと思う瞬間と、今は別に呼び出したくないと思う瞬間と、時間の中でふたつの瞬間があるものだ。小説とか絵画とかの作品というのは、まったくの誰とも知れない無関係な他者の記憶の外部装置みたいなもので、自分が今、記憶装置にアクセスしたいと思うか思わないかに関わらず、それに触れたとき、いきなり自分にアクセスしてしまう。そこでは基本的におびただしいエラーが連続して記録されるような状態ではあり、そうするとコンディションによっては、そのアクセス認識さえしないこともあるし、アクセス記録さえ残らないこともあるし、逆に異なるいくつものイメージがロードされ続けて激しい演算処理の末に未テストな状態のままいきなり実働環境にてリアルタイムで描画されてしまい激しいリソース消費で大変な処理負荷をかけつつあらぬ誤解や曲解や誹謗揶揄中傷や賛美や応援や励ましの拡大解釈も含めて猛烈なパニック状態を引き起こす事もある。


作品と人との場合、その処理ロジックを改善させデバイスの認識率を向上させようみたいな話にはなりえないところが面白い。そもそも、そこをつなぐと、どのような情報にアクセスできるようになるのが「理想」なのかが誰にも定義付けできない。つなぐことの意味すら確定してない。それどころか、それが本当につなぐ機関なのかさえも。それが本来の状態である。なので、やはりその意味では作品に触れるというのは死に近づく事の仲間なのである。