雪日


午前中は粉雪のような粒の細かい雪で、ベランダに立って外の景色を見ていると、いつまで経っても屋根や道路は黒く湿ったままで一向に積もりそうになかったが、午後を過ぎたらあきらかに雪の粒が大きくなり始めて、次第に屋根が白っぽくなりはじめて、木々とか公園の芝生とか歩道の端あたりも白さに覆われ始めた。そして寒さが純度を増して、立っている自分の安定を揺るがすようにして身体の斜め下から鋭く射し込んできて、その場にいるのがすぐに耐え切れなくなる。


最近、坂中さんのブログが更新してない。周期的に見ているブログだと、急に更新が止まるというのは、もしかして何かあったのか、などとそれなりに心配するような感じもある。しかし、もちろん僕はその人と知り合いでも何でもなく、たまたまそのブログで、もう何の事だったかは忘れてしまったけど何かをたまたま読んで以来、なんとなく、たまに見ているだけあのだが。しかしRyota Sakanakaは、ほぼ毎日更新する感じなので、僕は普段読んでるブログとかニュースとかはまとめてRSSリーダーとかに登録してそれをチェックしているのだが、そのリーダーに一日に一回Ryota Sakanakaもぽこっと上がってくるので、それで、ああ今日も更新したなとわかる。毎日とか、頻度多めに更新する人はその頻度というか上がってくる間隔でああ今日もだと無意識に思っている。でもまあ僕はじっさい、購読はしてるものの坂中さんのブログのその文章を、必ずしも毎日読んでる訳ではないし、書いてある事を理解してる訳でもないと思うし、まあ文章量が短めなときなら読むかな?という程度なのだが。だから別に、そのブログの更新が止まったからとって、何かをどうのと言えるような立場ではないし、言う相手を知らないし、向こうだってまさか、僕のような読者がいるなどとは、絶対に想像すらしてない筈で(でも読者というものがいる、という想像は勿論あるだろうが、それにせよ、この自分がこうして読んでいたりこんな文章を書いているという、今のこの、自分にとって事実な感じは、それは坂中さんという名をもつこの世のどこかに居るであろうその人物には、絶対に伝わらないから。)、だからそういう関係において「心配する」という気分というのは、ほんとうにどこにも行き着く場というか、落ち着ける場がないまま、頼りなくあたりをふらふらと揺れ動きながら浮かびっぱなしのまま、という感じになってしまう。


今日は一日読書。妻の読んでる本の内容を僕が受容して、僕が読んでいる本の内容を妻が受容することができたら面白いかという話をした。相互に読むというか、相手に読んであげるという行為を黙読で可能になったら面白いかもね。しかしそれだと聞いてて確実に寝るだろうと思われる。もしくは、あまりに「感じ方」が違って気持ち悪すぎる体験になるか。いや「感じ方」は伝達するか?やっぱするか。伝達するな。読んでるその人のスピード、ペース、呼吸、息継ぎの感じ、想像で震わせている声帯の周波、そういうののさまざまな要素属性の複合として合わさったものが「感じ方」だろうから。でもそういうのが伝わるのだとすると相当グロイ体験だろう。そうではなくて単なる文字情報だけ送信されれば良い訳だ。感じるのはあくまでも受信者のこちら。でもそれでも送信者の何かは伝わるはず。「文字情報」といってもそれだとパロールが伝わってくる?いや違う。それだと朗読になってしまう。声ではなくてあくまでも文字。相手から、文字が来る。文字なのに、文字としての何かが決定的にない文字。相手の特定可能な文字。あくまでも脳内に伝わってくるのに、あたかも相手の筆跡で書かれているかのような伝わり方をする。あるいは送信者の声が、切り離された音として文字と結びついてないまま、それぞれ別々にふたつに箱詰めになってセットで来る。この声で入力された文字ですという情報が紐付いて来る感じ?そこまで来るとその組み合わせ自体に面白味が出てしまって、言葉の完結的な意味内容はほとんどどうでも良い何かでしかなく、問題ではなくなる。伝わる元が明確になるのと、送信元の介在という事実から編集が当たり前の前提になってくる。やはり良いところをひたすら引き伸ばしただけの、同じピッチで続く音楽のようにずーっとロングミックスで延々続くような読み物というのが、これから出てくる。そういう仕様になった本を相手が取り込んで、相手経由で僕が受けるという感じ?